茜夫人


不意に聞かれ、八雲は困った。突拍子も無い事を行き成り聞いて来るなと困りはしたが、別隠している訳では無いので話す事にした。
「嬶天下ですので、まあ、良く、惚れた弱みと云われますが、先に惚れたのは茜です。私は別段、そう好きでもありませんでした。今は、大好きですが。」
白虎の頭を撫で、睡魔を誘う。うつらうつらと必死に頭を擡げていた白虎だが、睡魔には勝てないらしく、ことんと寝入った。其の白虎に身体を預け、八雲は天井を見た。
「初めて会ったのは大戦の時。其れから五年程、所謂馴染みでした。」
「五年?」
猪口を卓に置き、馨は薄く笑う。
「中学を卒業した年だったと思います。」
碌に学校に通わず、多分卒業出来た筈だと八雲は笑い、眼鏡を外した。
「私は末生まれで、家は継がず共問題はありませんでしたので、東京に出ました。」
八雲の言葉を待つ馨だが、勝手に自分の中で会話を成立させているのか八雲は無言だった。其れでも馨は言葉を待った。
「在れでも茜は、中々に可愛い女でして。」
馨は笑った。八雲も充分に惚れているでは無いかと。
東京に出た自分を茜は追い掛けて来た、そう続ける。
「然し私は、中国に居りました。」
「おやまあ。」
其れでは出会え無いでは無いかと馨は眉を落とす。けれど茜は、中国に八雲が居ると知り、中国迄追い掛けて来た。
八雲は当然驚き、何故居るのか聞いた。茜は一言、会いたかったから、そう云った。
鼻で笑い話す八雲だが、何処か嬉しそうで、酒を飲んだ。
会いたかったから会いに来た。其れが何処であろうと、会いに行く―――。
其の茜の行動に、馨は若さを羨み、昔を懐かしんだ。
「素晴らしい…」
「そうですか?」
「ええ。」
猪口を口に付け、少し流し込む。酒の匂いが鼻に抜け、ふわりと酔いが回る。
馨は茜を素晴らしいと云うが、実際八雲は、茜を見た時、気持悪いと感じた。恋人であるなら納得出来るが、生憎違う。唯の馴染みを中国迄追い掛けて来た茜に、八雲は気味悪さを覚えた。
息を深く吐いた八雲は膝立てていた足を伸ばし、白虎の背中に乗る頭を左右に揺らした。
「此奴何やねん、と思いましたよ。」
「おやまあ、ふふ。」
八雲は其の時、遺跡の事で頭が一杯で、茜は其れを邪魔しに来た家の使いとしか思えなかった。早く日本に帰れと八雲は云うのだが、茜は帰らないと居座り続けた。

「何やねん、邪魔したいんか。わいを怒らせたいんか。どっちゃねん。」
「怒らす積もりも無いし、邪魔したい訳ちゃうねん。」

十年前の茜が泣きそうな顔で八雲を見ていた。記憶の自分なのか、今の自分なのか八雲には判別出来無い。
「其れで八雲君は、何故茜さんと。」
馨の声に八雲は目を開け、酔った視界は歪んでいた。熱い息を吐き、火の点いていない咥えた侭の煙草を揺らした。思い出を笑う様に鼻息でマッチを消し、吐き捨てる様に紫煙を吐いた。
「…………好きやから追い掛けた。其れやけやったらあかん?なあ、あかん…?」
「え?」
「こないな台詞云われて、落ちん男が、何処に居んねん。」
結果、自分が茜を追い掛ける羽目に為ったと八雲は笑う。




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