純文学の様な


閉鎖的な静かな空間に、俺の季節到来と云わんばかりに気の早い一匹の蝉の声は矢鱈響いた。時折窓から入る風は白いカーテンを揺らす。頁を捲る音、扇子が動く音、鉛筆が動く音、人の息遣い。人間臭いのに其処は、何処か異様な雰囲気を持って居る。染み付くインクの匂いを肺一杯に満たし、本から顔を上げた。溜息一つでも蝉の声の様に大きく、斜め向かいに座る学生に時一は睨まれた。会釈し、学生から目を逸らし口元を本で隠した。少し舌を出し、其処迄神経質に為らなくとも良いだろうとは思うが、今は夏だ。二三日前に梅雨明けし、故に蝉の時期には未だ早いが卒業論文を手掛ける学生には、溜息や動作一つでも気に触る夏なのだ。
借りる筈だった本は、触りだけでもと頁を捲り始めたのが最後、結局三時間で読み終えてしまった。満たされた時一は又幸福の息を吐き、睨まれた。神経質と云う言葉が似合う人間も此処迄居ないのでは無かろうかと思う程の学生。ガリガリに痩せた身体、突き出た頬骨、凹んだ暗い目元だが眼光は鋭く、曇り一つ無い眼鏡、薄い髪、本を持つ手は骸骨の様で、神経質と云うよりは貧相だった。屹度、勉強にしか興味無く、又一心不乱に打ち込み、其れしか能の無い様な学生。そんな学生を時一は肘を付き、眺めた。勉強ばかりで女も知らないんだろうな、そう考える。
時一の大きな目に学生は手を止め、不審な目を向けた。にっこりと微笑み返したが、細い指で眼鏡を上げ顔を逸らされた。
――嗚呼云う、童貞臭いのって、女を知ったら、堕落決定だな。
十五歳にして此の思考、侮辱も大概である。
今度は違う方に目を向けた。頻りに扇子を動かす三十歳手前であろう男。姿に似合わず童話を読んで居る所を見ると、小学校の教諭か何かであろう。優しそうな雰囲気はあるが、其の整った顔に童話は不釣り合いだった。時一には、此の男の方が魅力的であり、同じ様に眺めた。頻りに扇子を動かし、頬杖付く薬指で唇を撫でて居た。時折其の指を噛み、堪らない色気を感じた。だから、余りの色気に溜息を吐いたが、在の学生から咳払いの嫌がらせを受けた。折角の夢心地を破壊され、時一は学生に向くと嫌味ったらしく笑顔を向け、くたばれ、そう声を出し席を立った。行き成り「くたばれ」と云われた学生は唖然とし、在の男は扇子を動きを止めた。心無しか、蝉も静かになった。
学生の目は時一を追い掛け、其れに時一は視線を流した。
――嗚呼、成程。
此の学生のとんでも無い性癖を知った。憶測ではあるが此の学生、童女趣味のマゾヒニムだ。時一の声は甲高く、時一を女だと勘違いし又周囲の目がある中での暴言に、知れず興奮して居る。神経質な其の顔が、見る見る情けない快楽を知る雄の顔になって行った。
「くたばれだって。」
静かな声。呼吸に紛れる其の声に時一は足を止めた。
真赤な髪をし、何時も同じ作家の本を読む少女。勿論、童話である。
「又、御会いしましたね。」
時一の声に少女は本から目を上げ、薄く加虐的に笑う目元を見せた。年の頃十歳と云った所だろう、幼い少女は人形の様な愛らしさを持ち、何時も同じ場所で同じ作家の本を読んで居た。丸い輪郭、少し低い鼻、大きな目、小さな唇、子供の愛らしさと生意気さを上手く融合させた、如何にもな美少女。左腕には杖が固定されており、少女の様には必ず付き人が居た。
「御嬢さん、其の方は。」
「良いの、知り合い。」
尤も名前は知らないけれど、少女は冷たく笑った。
「座って。」
少女は右手で左側の椅子を引き、時一を座らせた。机の縦幅一杯に本を並べ、少女は手当たり支度読む。其の中から少女は一冊取り、座った時一に渡した。
「訳して。此の本はどれ?」
少女は原本と翻訳本を並べ、そして読む。
「此の本は、嗚呼、此れですね。此処の文章が此処で、文法が違いますから、気を付けて下さいね。」
紙をなぞる時一の爪が、少女は一番好きだった。褪せた紙に其の真赤な爪は浮き、とても記憶に残る。自分を見る時一の大きな目、黒く、澄んで居た。包帯から少し覗く変色したケロイド、不釣り合いな醜さが時一の愛らしい顔を一層印象強くさせた。
時一も同じだった。愛らしい其の発展中の少女の顔、其処に表情や感情は無く、何時も冷たい笑みを蓄え、硝子玉を揺らした。
二時間程時一は少女に本を教えた。翻訳された其れを読むのなら半分の時間で済むのだが、時一に苦は感じず、寧ろ楽しさを感じる。出来ればずっと、こうして少女と、本の世界に居たかった。何故だが、此の少女と居る時は、現実の煩わしさや退屈さを忘れられた。
然し。
時一は本を閉じると少女に向いた。
「残念ですが、今日で最後です。」
感情を見せない少女の目は少し揺れ、笑う時一を見た。
「独逸に行きます。ですから、会えるのは、今日で最後です。」
「独逸…?」
「はい。」
笑う時一に釣られ、少女も少し、子供らしい笑顔を見せた。
「素敵…」
「ええ、屹度素敵な国です。」
御互い、本の中や人から聞いた話でしか其の国は知らない。知らないが、期待と夢で国を築き、空想した。
「何をしに行くの?」
「自分を、見付けに。」
少女に時一の年齢は判らない。そして悪い事に、時一の成長は十歳の時から止まって居る。詰まり少女には、時一が同じ歳に見えた。実際は少女の方が五つ程下であるが、少女は自分と同じだと考えて居た。そんな時一から、自分を見付ける為に独逸に行く、と云われた。此の言葉は、自分の世界しか知らない少女には衝撃で羨ましくもあった。
「見付けられると、良いね。」
「見付けます、絶対。」
自信たっぷりに時一は云い、本を一冊、鞄から出した。宗一から貰った独逸童話で、独逸の風景が良く判ると云う。時一に独逸語は判らない、だから宗一が翻訳した。其の帳面を上に載せ、少女に渡した。
「気が向いたら、僕を思い出して下さい。」
硝子玉を揺らし、帳面を捲る。原本を捲ると、時一とそして染み付いた違う匂いもした。
「此れが、独逸の匂いなのかな。」
紙に鼻を付け、息を吸う少女に、どんな匂いなのだろうと時一も鼻を近付けた。然ししたのは古臭い紙の匂いで、首を捻った。
「帰国して、若し覚えて居たら、正しいか教えます。」
「多分、忘れる。」
少女は意地悪く笑い、受け取った本を付き人に渡した。
二人は知って居た、此れが蝉の声の様に一瞬で終わった思い出なのを。だから、互いが互いを覚えて居る事が無い事を。
現に少女は、付き人に本を渡した時点で其の本の存在を忘れ、時一も、日本を発つ頃には本の事も少女の事も忘れた。
然し、二人は此れだけ覚えて居た。
少女の真赤な髪と、時一の真赤な爪を。
時一が少女を忘れた理由は、もう一つある。独逸には、赤髪が多く存在して居た。なので、少女の事は、有り触れ赤髪の前では完全に風化された。
二人が出会うのは、此れから六年後、大戦が終わった年になる。引き合わせたのは、独逸と其れに浮かぶ赤だった。




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