今日は


ベルが鳴る。洗濯物を抱えている手伝い、せつ子の代わりに、慌て向かう。
「済みません、時恵様。」
「構わないわ。早く干して仕舞い為さい。」
午後からは雨が降ると聞いて居る。梅雨の鬱々と雨降る中、やっと見えた御天道様の機嫌の内に、体良く乾いて貰わなければ、困るのである。普段ならそうは思わないのだが、今日は主人のシャツがある。少しばかり乾いて貰わないと、アイロンが巧くゆかない。其れだけは避けたかった。
するのはまあ、せつ子だが。
急かす様に手を振り、玄関を開けた。
そうして現れた顔。
兄の宗一だった。
昔の様に髪が伸び、彼が初めて独逸から帰国した日を思い出す。
「御帰り為さいませ、兄上。」
「嗚呼、只今。」
其の笑顔は、昔とちっとも変わらない。
抱き締め、洋服の窮屈さを知る。兄は矢張り、タイを締めた姿より、ゆらりゆらりと袂揺らす方が似合う。
私の愛しい、弟もそう。
「あの、時一は。」
「時一、な…」
顔を逸らし、首を触る。
「驚きぃな?」
「ええ、龍太郎様から御聞き致しましたわ。」
笑う私に、兄は微笑んだ。
「ほんに、ええ男や。」
可笑しく笑う私に、兄は門に向かって叫んだ。そうして現れた、すらりと伸びた背の男。帽子を被り、俯いて居るので顔は見えないが、愛しい弟だと判った。
其の立派な、タイの似合う姿に涙が零れ、兄を擦り抜け、駆け寄った。
「時一……」
両手を握り、摩る。
嗚呼、何て立派に成長を遂げたのだろう。あんなに小さかった手が、こんなにも大きく為った。身長も兄を越し、私より小さかったのに。
「姉、上…」
其の声に心臓がきつく締まり、息を飲んだ。
「何て、素敵な声に為ったの…」
顔に手を伸ばし、其の頬を包んだ。
「嗚呼、時一…。何て事…」
又、此の顔を見れる等、思っても見なかった。包帯が無い其の顔。何て素敵なのだろう。
「もっと…、もっとよ。良く見せて…」
帽子を外し、顔を露にする。長い前髪が揺れ、目元を隠す。其れを払い除け、私は涙で歪む視界で、然りと見た。
「時一、私の時一…」
「姉上…」
其の声。本当に、男の子は、変わるもの。其れを目の当たりにした。
抱き締め、深く息を吐く。しっかりとした身体、広い肩幅、私の様に柔らかかった身体が、変化した。
「時一、只今戻りました。愛しい姉上、御元気そうで何依りです。」
身体を離し、笑う時一。屹度、擦れ違っても判らない。自慢の弟が、一層自慢に思えた。
「入って。御茶でも。」
「ええ、勿論其の積もりでした。」
其の茶目っ気は、変わらない。
玄関を通した時、時一は其の侭上がった。私は困惑し、固まる。後ろで兄の盛大な溜息が流れる。
「時恵の家は、土足禁止。畳の上を、靴で歩くんか。」
「あ、嗚呼。そうでしたね、済みません…」
慌てて靴を脱ぎ、笑った。
云われてみれば、時一は、靴を脱ぐという習慣を知らないかも知れない。幼少時代から靴の侭出入りを繰り返し、玄関のドアーから廊下は繋がっていた。そして、其の侭独逸に発った。今更、其の日本の習慣を覚えろという方が間違って居るのかも知れない。
「時一の為に、改装でも、しようかすらね。」
私は悪戯に笑い、スリッパを差し出した。
其の時、白蓮が奥から出て来た。其れに二人は驚き、後退した。
「え?狼?いや、まさか。日本に狼は居てない。ほんならでかい犬?」
「いや…此れは、狼だろう…」
二人とも、狼の姿は見た事がある。兄の和臣が長年飼って居たから。慣れては居るのだが、居るとは思わず、困惑している。
私は白蓮の頭を撫で、微笑んだ。
「白蓮ですわ。娘ですの。」
其れに笑う時一。
「娘。ははあ、成程。龍太郎さんに良く似てらっしゃる。」
「一瞬龍太郎か思たわ。」
「実は狼男だった、そんな落ち。」
「でも此れ、雌やろ。」
「あ、だな。」
二人納得し、白蓮の顔を覗き込む。其れに、兄は何か気付いた様だった。
「和臣に、似てへん?」
「元帥に?」
裏声を出す時一。矢張りというか、気付く者には気付くのだろう。
「白蓮は、御兄様から頂きましたのよ。」
納得する兄。
「通りで。元帥からでは無く、御兄様から。」
「ええ。」
だから何処と無く愛らしいのだろう。
目を瞑って居た白蓮が、耳を立たせ、門に走り向かった。理由は判って居る。
「御帰り為さいませ、龍太郎様。」
見えた姿。何時も私の横に居る白蓮だが、夫が帰って来た時だけは、私の傍を離れる。白蓮が私の傍を離れると云う事は、夫が帰って来た事を示すのだ。
真新しい軍服に身を包んだ夫。今迄のでとは異なり、詰襟では無い。臙脂色のタイを締め、黒い軍服に身を包んでいる。
「嗚呼、今帰ったよ。」
微笑む夫。
「御帰り為さい、龍太郎さん。」
時一の言葉に、彼は笑い、膝を屈した。
「我が帝國軍に、ようこそ。」
口角を上げる夫の顔に、私の頬が、夫の喉元で締まるタイと同じに為ったのは云う迄も無い。
大戦。
―――今、始まる。




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