中尉の娘、元帥夫人


加納の言葉に、井上、其れから本郷は耳を疑ぐった。二人の目は揺れ、井上に至っては視線が上手く合わせられなかった。紅茶を飲む加納。修羅の声。一体自分達に何が出来る。
唯の中尉に、元帥からの頼みを、断れ様か。
「無理に、とは申しませんので。」
其れでも絶対な命令な気がして為らない。気では無い、軍服を着、其れを云った以上、其れなのだ。困惑し、眩暈起きる頭を、井上は振った。
「あの、一寸、頭を整理して来て、良いですか?」
「ええ、構いませんよ。」
笑いカップを置いた加納に背を向け、廊下に出る。窓から見える庭。其処に、琥珀が居る。
紫煙を上げ、其れを見た。
「済みません、私も。」
「ええ。」
忙しない人達だなと思ったが、敢えて何も云わなかった。井上が取る道は、一つしかない。小さく笑い、其の未来を笑った。


*****


「如何するんだ。」
硝子窓に手を突き、聞く龍太郎。
「如何するもこうするも、断れる訳ねぇだろう…」
同じ様に手を突き、琥珀を見た。
自分に何が出来るのか。嫌ですと云えば、其処で拓也の軍人としての道は断たれる。何て厄介な人間に好かれたか。
揺れる琥珀色の髪。其の顔に、何故か玩具のサングラスを掛けて居る。ハートの形をした。白いワンピースが、目に痛い。
拓也は窓を開け、琥珀を呼んだ。愛らしい声で、なあにダディと、サングラスの掛かった顔を向けた。
「加納元帥に、御挨拶為さい。」
其のサングラスを外して、と云う前に琥珀は家に入り、馨の居る応接間のドアーを開けた。其の姿に、加納は息を飲んだ。
「…アリス…」
呟いた言葉に、琥珀は笑った。
「知ってるの?」
英吉利の文学小説。其れを馨は知って居た。其れが何だか嬉しく、琥珀は横に座った。其れを見た拓也は慌てて応接間に入った。
「琥珀。失礼な真似は止め為さい。元帥の横に座る時は…」
馨の笑み。拓也は黙った。
「構わない、と申しているでしょう。彼女の前では唯の男に過ぎません。元帥の肩書き等、無い。」
何故、男はこうも恋愛に揺れ動かされるのだろうかと、龍太郎は思った。拓也の時も、自分の時も、和臣の時も、そうして、馨も。男は、愛と云う呪縛から逃れる事は出来ないのだろうか。
馨の目に、龍太郎は息を飲み、視線を逸らした。
肩書き等無いと云う割には、軍服を着て、願い申し出たのは、其処に主従関係が覗くから。口と態度が、反して居る。
「あの、加納元帥。」
拓也が云わんとする事は判る。判るから、代わりに云って遣ろう。そう思ったのだが、拓也は首を振った。先程と同じ様に前に座り、身を乗り出す。
「其の申し出を断った場合、私は如何為ります。」
揺らぐ馨の目。無言が物語る。そうして笑った。
「スーツでも御召に為れば良い。」
何が無理にとは云わないだ。完璧な命令では無いか。今更軍人を辞めて、一体如何しろと云う。
拓也は息を吐き、龍太郎を見た。寂しそうな目に、大事な物が無く為る恐怖を孕んで居た。
「加納元帥。」
龍太郎の低い言葉に、首を傾げる。
「此れは、私の暴言。処罰は、何卒私に。」
琥珀の為では無い。大事な、拓也の為。もう二度と、其の目に憂いを落として為るものか。
龍太郎は深く息を吸い、云った。
「誰が御前なんぞに、大事な琥珀を遣るか。軍人の妻にする為に、英吉利から連れて来た訳では無い。此の、馬鹿者。」
馨、そして拓也の目が見開く。サングラス越しの目が、揺れる。
「今、何て云ったの…?妻…?あたしが…?」
拓也は頭を抱え、其れでも何も云わないのは、龍太郎が云った言葉と同じ気持だから。
「今、何と仰いました?」
割れそうな馨の声は、怒りで震えて居た。
「馬鹿者…?」
謝るなら今だろうが、龍太郎に其の気等毛頭無い。拓也の気持を考えれば、此れだけでは足りない位なのだ。
「御許しを。然し此れが本心…」
云った瞬間龍太郎の身体は横に飛んだ。馨の手が、頬目掛け飛んだ。
「龍太…っ」
倒れ込んだ龍太郎の身体を支え、拓也は馨を見た。睨む訳でも、媚を売って居る訳でも無い、唯ゝ黒い目を向けた。
叩かれた頬を触り、龍太郎は息を吐いた。成程、元帥としては偉いが、人間としては下劣。
噂には聞いて居たが、何と低俗な。
「其の折檻癖を治してから出直せ…、野蛮人…」
「誰に向かって其の様口を…。野蛮人は、貴方だ。」
拓也を支えに、龍太郎は立ち上がった。
「此れでも、年は食ってない。年上の忠告は聞くもんだぞ、加納。」
切れた所から、血の味が滲む。飲み込むか吐き出すか。迷っている内に、又叩かれた。
「何たる口の利き方。此れだから陸軍さんは…」
「一人の男として忠告してるんだ…、黙って聞け、小僧っ」
憤慨した龍太郎に、拓也は顔を逸らした。そうして感じる視線。
「琥珀…」
サングラスで隠されては居るが、見せ付けられた暴力に放心して居るのが判る。龍太郎の腕を掴み、首を振った。
「此奴の前で、人間の醜さは、見せないで呉れ。」
懇願する其の目に、龍太郎は腰を下ろした。頭を振り、怯える琥珀の頭に触れると拓也は其の侭床に手を突いた。
「御許しを。」
馨の目が楽しそうに動く。
「如何やら、貴方は判っていらっしゃる様だ。」
長い髪を床に伸ばし、土下座する拓也。其の姿に龍太郎は心が痛んだ。こんな姿を見せる為に、馨の方が上だと認める為に自分は暴言を吐いた訳では無い。拓也に申し訳無さはあったが、馨に対しては全く感じて居なかった。
「御返事は、如何な物でしょう。」
満足そうな声に顔を上げ、琥珀の顔を見た。
「琥珀に、御聞き下さい。其奴ももう、十五。自分の人生位、自分で決めれます。」
立ち上がり、自分を見上げる琥珀の両肩に手を乗せた。聞こえる母国語。琥珀は目を瞑った。
「琥珀の人生は俺が決めた。英吉利で見付け、琥珀としての人生を歩ませた。だが、ヴィクトリアの人生は、自分で決めろ。Lady Victoria,Keep favorite.」
云って手を離し、応接間から姿を消した。其れに続く龍太郎。
「居なく為る…」
拓也の口から出た言葉。もう、琥珀に自分は必要無い。其のハート型のサングラスは、大人になる為の階段。寝室のドアーを閉め、力無く座り込んだ。
「拓也…」
龍太郎の手に、拓也は身体を寄せ、鼻で笑う。
「此れで、良い…。元帥夫人なんて、すげぇじゃねぇか…。英吉利で見た在の少女が…、瓜二つの在の顔が…」
引き攣る顔が、一瞬にして歪み、嗚咽を漏らした。
「ヴィクトリア…、俺の…ヴィクトリア…」
自分は、こんな運命なんだ。愛する女は、傍に居ない。今迄も、そして、此れからも。
けれど、生きて居るだけで充分だ。自分が、姉が出来無かった事を、してやろう。
同じ顔で、美しい花嫁姿を、見せて遣ろう。
「姉さん…、拓也を愛して居るなら、傍を離れないで。」
龍太郎の声に、涙を止める事が出来無かった。同じ顔で無かったら、どれ程良かったであろう。琥珀の姿に、男二人は、愛した女を重ねていた。
何処迄も、男は愛の呪縛に翻弄されるのだ。
此れは、巡り巡った―――業。




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