元帥さん


勝手に一人で出歩かないで下さい。
拓也からでは無く、五十嵐に龍太郎は云われた。云われた其の時は、うん、と軽く返事をしたが、そんな事守れる訳は無かった。長年に染み付いたエスケープ癖は、治らないのだ。
そんな訳で、龍太郎は一人歩いている。皆は、まあ仕事をしているんじゃなかろうか。気付いたら消えていた、そう取って貰おう、龍太郎は木々を見つつそんな事を考えていた。
龍太郎は良い。
けれど、驚くのは出食わした国民である。幻覚かと誰もが思った。
だってそうだろう。
陸軍元帥が、一人で歩いている等、誰が思う。何時も蟻の行列みたく黒い塊で周りを圧巻する。其れがふらっと一人なのだから皆驚いた。
随分歩いた。気付いたら田畑に囲まれ随分田舎臭く、見慣れた町並みは消えていた。其の田畑の中で、作物作りに勤しんでいる塊が居た。母であろう女は、赤子を背負い、手伝っている子供に指示を出す。小さい息子が二人と、年頃の娘が一人。
気付くだろうかと、龍太郎は煙草を吸い乍ら見詰めていた。
何れ位経ったかは判らないけれど、漸く子供の一人が龍太郎に気付いた。気付いて、母親に何か云った。
面白い。
母親は腰を抜かし、慌てて子供の頭を地面に擦り付けた。土の付いた顔を子供は上げ、笑った。何か云っているが、此処からは良く聞こえない。龍太郎は煙草を捨て、其の声に近付いた。
「何だ?」
其の声に娘は腰を抜かした。
「嗚呼、元帥様よ。本物よ。」
「これ、はしたない。」
幼い子供達は、元帥が一体何なのかも知らず、目を輝かせていた。
「元帥さん。」
明るい声。
「はあい、呼んだか?」
「母さん、本物だ。」
偽者が居たら良いんだけどなと、龍太郎は笑う。
「本郷、元帥…?」
震える母親の声。
「何故、此処に…」
そんな事を聞かれても龍太郎は答え様が無い。
「歩いてたんだ。」
「はい。」
「真ぁ直ぐな。気付いたら此処に居た。」
「迷子だ、元帥さん。」
子供の声に母親は拳骨を落とした。
「滅多な事云うもんじゃありませんッ」
「いや、実際迷子だろうな。俺。」
紫煙を上げ、一本道を見た。
又真っ直ぐ歩いて行けば帰れるだろうか。けれど其れも面倒臭いなと龍太郎は思い、拓也辺りが迎えに来てくれないだろうかと期待をした。
「今何時か判るか?」
聞かれ娘は時計を見た。
「もう直ぐ六時です。」
「六時か。そんなに歩いたか、俺。」
基地を出た時は昼前だった気がする。道理で辺りが暗い。
じっと龍太郎を見る親子に、龍太郎は固まった。
「作業、続けて良いぞ。」
「いえ、もう終わろうと思っていましたので。」
「そうか、邪魔したな。」
背中を見せた龍太郎に、子供がしがみ付いた。くるんとした大きな目は犬に見え、鼻筋はツンとし、坊主頭の下にある額は滑らかに尖る、子供だが、大型犬の顔付きと良く似る。
何処と無く白蓮を彷彿させ、じっと眺めていると無邪気な笑顔を見せた。
「元帥さんッ」
「ん?」
向き合い、龍太郎は身を屈めた。
「えへへ。カッコイー。」
龍太郎は笑った。
「そうか、有難う。」
「俺も元帥さんみたいに為れるかな。」
龍太郎は頭を撫で、瞬きと一緒に頷いた。
「為れるさ。」
「そうか、有難う。」
真似をした子供の無邪気な顔は、戦争を微塵も感じさせなかった。
「君、名前は?」
子供が答える其の前に母親が気付いた。一本道を猛スピードで走る、軍馬とジープを。あ、と云う声に後ろを向き、名前を聞く前に立ち上がった。
「てめぇ、此の野郎、こんな所に居たのかッ」
ジープよりも早い軍馬に、幼い子供達は喜んだが、母親と娘は其れ所では無い。行き成り元帥が現れたかと思ったら、今度は将校。其れも佐官の、元帥軍。
「おお、本当に迎えに来た。」
期待はするものだなと、龍太郎は万歳し、振る。
「勝手に出歩かないで下さいって、私達云いましたよね?」
ジープの中から小野田は喚き、
「どんだけ探したと思ってんだ、くそったれ。」
と血相を変える拓也が目の前に止まった。
真っ白い馬、拓也の乗り方に慣れない為か息切れし、主人である龍太郎に顔を寄せおうおうと文句を垂らす。一通り文句を聞き、機嫌治った所で拓也に向いた。
「でも、真っ直ぐだったろ?」
「真っ直ぐ…?何が真っ直ぐだ、くにゃくにゃ曲がりやがって、真っ直ぐ行ったらこんな所にこねぇよ馬鹿、御蔭で股が痛ぇよ。」
云って真っ白な煙を辺りに散らす。其れに重なる神経質な声に龍太郎は視線を向けた。
「陸軍基地から真っ直ぐ行ったら、我が海軍が誇る、軍港です。」
後部席から、冷めた目で夕焼けを眺めた。
現れた馨に娘は奇声を発した。
海軍さんは、世の娘達の憧れなのだ。
「か、か…海軍…ッ」
「車という物は、野蛮な乗り物ですねぇ。全く全く。」
其れは此方の台詞。何故海軍の元帥さんが陸軍のジープに乗って来たのだろう。其方が、全く全く、である。
「何故加納さんが居るんだ。」
其の言葉に拓也は煙草を捨て、無言で鳩尾に拳を沈めた。
「元帥殿、今日は加納さんが御見えに為るから絶対居て下さいって、私、云いましたよね?」
笑顔で云う拓也に、嗚呼そんな事を聞いた気がすると、思い出した。
「騒がせて済みませんね。ほら、乗れ。」
龍太郎を無理矢理ジープに頭を突っ込ませ、拓也は鐙に足を掛けた。
「俺、そっちが良い。白龍もそう云ってる、御前の扱いは乱暴だと。な、白龍。俺が良いよな。」
――嗚呼そうだ、井上の捌きは俺には堪え難い。
「黙って乗ってろ。」
溜息を吐く拓也に子供の目が向けられる。此の子供は、元帥さんより、こっちの大佐さんの方に興味を持った様だった。正確には、軍馬――白龍だろう。
「何だ?」
「元帥さん?」
拓也はぽかんと口を開けた。
「え?俺が?」
「うん。」
「俺は、大佐だよ。」
「大佐…」
子供は頷き、もう一人の子供の頭を叩いた。
「あにすんだよ。」
「大佐の方がカッコイイ。兄ちゃん。」
「馬鹿云え、元帥さんの方がカッコイイ。」
「だって馬に乗ってる…」
其の会話に息を吐き、白龍から離れると龍太郎に云った。
「乗れ。」
海軍には負ける、如何遣っても陸軍は海軍さん程スマートでクールでは無い。骨身に染みる拓也は、せめて、せめて元帥だけは恰好良く子供達の目に映る様、手綱を離した。
龍太郎は笑い乍ら白龍を触り、拓也に笑い掛けた。
「一緒に乗るか?」
「股痛ぇつってんだろ、御宅等坊ちゃまとは違い、馬にゃ慣れてねぇんだわ。」
相当疲労があるのだろう、何時に無く饒舌で溜息が多い。
軽々と馬に跨り、反る馬。白い身体に夕日は良く映え、其の姿に子供達は歓声を上げた。
「そうだ、君。」
「俺?」
「名前の答えを聞いて居なかったな。名前は何だ?」
夕日に霞む笑顔、子供はしっかりと其の口角を視界に焼き付けた。
「敬作…、野中、敬作…」
「敬作…、良い名だ。元気があって何より、其れでは、又な、敬作君。其れ迄生きて居ろ。」
「………はい…ッ、本郷元帥…ッ」
大きく反る馬、鞭の音が酷く心地良かった。ジープに負けない白龍の速さに、親子は呆気に取られた。
若しかしたら、夢を見ているんじゃないだろうか、そんな感覚に為る。
だってそうだろう。
こんなに凛とした高貴な姿、見た事無い。
「本郷、元帥…、龍太郎さん…」
少年敬作が、龍太郎に再会するのは、もっとずっと、世界が戦争等本当に考えられない時代の時の話である。




*prev|1/1|next#
T-ss