目覚めた時、唐突に云われた。其の日は、未だ夜であろうかと疑問に思う程の薄暗い朝で迎え、遠くで演説があっていた。
時刻は十時、なのに太陽は無かった。今日は寒い、と云われれば最もな気温でもあった。
侑徒は何を云われたか、海を見に行こうと云われたのだ。
「海、ですか?」
こんな日に。
独逸は地図で表すと、樺太辺りの緯度に位置する。今は六月、尚且曇り空、当然、寒い。
そんな日に態々好んで寒い場所に行こうと宗一は云ったのである。御苦労さん、と侑徒は感じ、しかし断ってもする事が無い。渋々頷き、車で二時間走り、今こうして男二人で面白くも何とも無い黒い海を眺めている。
「人、居ませんね。」
「まあ、そらなぁ。」
こんな日に、こんな田舎に誰が来るか。居たら其れこそ、宗一並の変人である。
強い海風で互いの長い髪は乱暴に噴き上がり、侑徒は其れが気に食わず居る。耳元では、苛々するのを嗤う様に轟々ひゅうひゅう風が鳴っている。そして寒い。何が面白いんだ、と宗一を見たが、無表情で海の方向を向いて居るだけで何処も見て居なかった。帰りましょうよと云う侑徒の声は風に消されているのか、返事は無かった。
「俺、少し歩いて来ます。」
「ん。」
何だ、聞こえているんじゃないかと、宗一一人残し、侑徒は散策を始めた。しかし砂と岩があるだけで面白さは、此の気候の様に無かった。
風が余り来ない岩場の影に身を落とし、煙草を咥え、鼠色の空を見た。
「何がオモロイんやぁ…」
項垂れ、勝手に帰ってしまおうかとも考えたが道が判らないので、宗一が飽きる迄此の暇に付き合う。
「変人やぁ変人やぁ思てたけど、ほんに変人やぁ。」
侑徒は独り言が多い。其れは友達が居ない所為で、誰に話す訳でも勝手に口が動く。独り言なので人に聞かれると困る事が大半で、勿論此の独り言もそうである。独り言の時は何時も、嫌い直そうと試みる京弁で、結果何時迄も訛りが取れ無い始末に陥る。
「変人で悪かったな。」
岩から降って来た宗一の声に侑徒は飛び上がり、煙草が飛んだ。
「驚か…。嗚呼…、嫌だ…」
「橘、煙草吸うんやな。」
砂の上で燻る煙草に視線を流し、侑徒を見た。父親に見付かった時の様に慌てて其れを砂で隠滅した。
「別にええけど。」
侑徒が喫煙者であろうが無かろうが宗一には関係無い。唯、今迄一度も見た事が無かったので聞いた迄だ。父親に対する恐怖心の消えない侑徒は一々びく付き、証拠隠滅を図った。
「丁度ええわ、一本頂戴。」
あるまじき事に宗一は煙草を忘れ、なので何処を見ているか判らない視線を流していた。
箱ごと侑徒は渡し、渡してから手を引っ込める迄の速さと云ったら、鼠が逃げる程の速さだった。
「そない脅えんでもええて。」
「済みません…」
乾いた笑いを流し、侑徒は海に視線をやった。ずっと気になっているのだが、波打際を行ったり来たりする物体がある。侑徒は其れに近付き、波ぎりぎりにしゃがんだ。手を伸ばすが、さーと波に流れ、其れを数回繰り返し、宗一は其れに笑っていた。
物体は帽子であった。
軍港でも無いのに疑問を持ったが、侑徒には其れを取る方に気が回っている。後ろから宗一に抱え上げられ、悲鳴を上げる前に海に落とされた。
「先生ぇっ」
「あはは。水、あったかいなぁ。」
「詰まり、出たら寒いでしょうっ」
「せやなぁ。」
等と宗一は暢気に云うが侑徒には笑え無い事である。
「俺、泳げ無いんですっ」
浅いから良いもの、深ければ其れこそ“菅原医師”が動く。
「奇遇やなぁ、うちも泳げへん。」
飄々と云われ、侑徒は、もう良いです、と海から出た。しかし寒い。がたがた震え、又岩場に隠れる侑徒に宗一も出た。
「怒りなやぁ。」
「怒ってませんっ。寒いんです…っ」
見る見る唇から色が無くなり、紫色に震えている。温室育ちの侑徒ちゃんは、菅原先生ぇの様に戦地に行ったりしない。宗一は平気で、其の感覚で侑徒を海に落とした。まさか此処迄寒がるとは判らず、堪忍な、そう云った。
「彼奴等を真冬の海に落としても平気やったから、御免。」
人相悪く寒さに堪える侑徒だが、堪えられる物では無かった。
言葉無く震える侑徒に宗一は困り、同じ様に前にしゃがんだ。
「御免て。」
「良いです…」
「機嫌直してぇな。」
「直して欲しいのは機嫌では無く体温です…」
宗一は深く息を吐き、顔に張り付く侑徒の髪を払った。両頬に宗一の体温を知り、少しは増しになり侑徒は薄く笑う。
「橘て。」
手を重ね、手からも宗一の体温を奪おうとする。
「笑うとほんに可愛ぇなぁ。」
「はい?」
何だ行き成り、と驚き、顔を上げた。鼠色の空が見える筈であるのに、見えたのは宗一の顔だった。海水の味が口に広がり、手を下ろした。波の音が嫌に響き、寒さが消えた。
「あかん…」
唇を離し、宗一は云った。
「何してんねや…うち…」
「キッスを…頂き、ました…」
「判てるわ…」
改めて云われると恥ずかしい。羞恥で身体が熱くなり、煙草を咥え、挙動不審に眼球を揺らした。五十も過ぎ、何を今更キッスごときに赤面しているのだろうかと、尚羞恥を覚えた。
「忘れて…。今のは忘れて…」
「嫌です。」
「頼むわ…。罪悪感で死ねるわ…」
恋人以外にそう云う事をしない宗一は、侑徒にした罪悪感に打ち沈んだ。
「橘、あんな。橘はその…、平気でキス出けるかもよぅ知らんけど、うちはせぇへんねや。うちこう見えて、貞操観念めっさ強いんや…」
「なら何故されました。」
「そないな、うちが一番聞き………」
言葉を掻き消すキッス。
「俺…」
「止めや…」
「俺…」
「云うなや…」
聞けば最後、遠くで聞こえた砲弾の様に身体に思いが打ち込まれる。
「頼む…云わないでくれ…」
何故風が止んだのか。
宗一は風を恨んだ。




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