清人くんと雪子さん


清人は心底人参が嫌いだと云う事が判明した。毎日弁当箱に残される人参に雪子は溜息を零した。
「何故こんな細切りさえ判るのよ…」
ついでに口に持ってゆく作戦だったピラフの中の細切れ人参は弁当箱に張り付いている。
「何をしたら食べるの、如何したら良いの…」
母親の意地が無駄に開き、明日は人参のみの弁当にしてやろうか、将又、御前は兎だと暗示を掛けてやろうか、雪子はアルミの弁当箱に張り付く忌ま忌ましき人参を流した。
雪子は大変真面目で、自分で出来る事は全て自分でしなければ落ち着かず、出来無い事は出来る様になりたい体質である。元帥夫人にも拘わらず、使用人を一切付けず全て自分でして来た。家事をし乍ら子育てをする雪子の姿に和臣は涙を誘われたものだ。なんせ、生態を把握する和臣の身近な女と云えば、三人の母親と時恵だけである。彼女達は当然何もしない。出来無いからしない、或いはやる気さえ起こそうとしない。誰かがする、誰かがして当然、そんな女しか和臣は知らなかったのだから雪子に驚いたのは当然と云えば当然であろう。
女と云う生き物は、奇麗に着飾り其処に座り、笑って居る生き物だと、和臣だけでは無く宗一も思って居た。故に此の二人は、雪子に頭が上がら無いのである。
そんな性格の雪子に育て上げられた一幸に好き嫌いは一切無い。新は元から、甘い物以外なら何でも口にする体質なので雪子は手を焼かずに済んだが、問題は折だ。今迄散々放任した結果、好きな物を好きなだけ食うと云う最悪な大人に成長し上がった。身体に悪いとは思いつつも今更母親面するのも気が引け、尤も今更折が聞く訳も無く、雄一が頭を痛めて居る。
そんな雪子を清人が刺激した。何が何でも人参を食わせてやると、包丁を持つ雪子は不気味に笑う。其の光景に、折からの命令で御三時を貰いに来た清人は台所に入れず震えて居た。
「清人、何をして居るんだ?」
台所を覗き、震える息子に雄一は声を掛け、清人と雪子は同時に悲鳴を上げた。
「御父様…」
「一寸…嫌だわ…」
俎板に包丁を突き立て、雪子は息を整えた。
「何?清人君。」
何時から其処に居たの、声は掛けなくともせめて気配だけでも寄こせと無理な思いを抱く。
「折さんが御三時を寄越せと…」
遠慮気味に云う清人に雪子は頷き、戸棚からカステヰラを出し清人に渡した。盆に乗せ、台所から出様とした清人を雄一は遮り、盆を取り上げた。
「食べたければ部屋から出ろと伝え為さい。」
御父様からの御叱りに清人は萎縮し、困惑した。雄一の云う事は聞かなければ怖いが、其れを折に伝えるのはもっと怖かった。絶対に逆らってはいけないのが御父様であり、又折であった。
清人が雄一に逆らえないのは至極当然で、当り前な事なのだが、折に逆らえないのは其の行き成りヒステリックを起こす折の性格の所為である。無意識に母親を思い出し、結果、逆らう事が出来なくなった。
「御父様が云って下さい…」
「何故。」
「怖いです…折さん…」
半ズボンを握り締める清人に雄一は溜息を零し、盆をテーブルに置くと折の部屋に向かった。二階から二人が口論し合う声が聞こえ、雪子は関係無いと云わんばかりに俎板に向き直った。ぎゃあぎゃあ喚く折も気になるが、清人は雪子の方が気になって居た。俎板の上に乗る大嫌いな人参を清人は見て居たのだ。
「雪子夫人…」
「何?」
「人参…」
清人の弱い声に包丁の音は強く、雪子はゆっくりと振り向いた。
「如何したら食べるのかしらねえ?」
其の笑顔は不気味で、人参の代わりに自分が細切れにされそうだと清人は思った。
何故嫌いなの、と聞く雪子に、薬みたいな匂いが嫌い、と素直に答えた。
「じゃあ、清人君は何が好き?」
「特にありませんが。」
そう云われて仕舞えば、確かに清人は人参以外は好き嫌いせず食べる。日常を思い出し、何に一番反応を示して居たか必死に考えた。しかし何も思い出せず断念した。
又色々考え様と、雪子は人参と林檎、和蘭三ツ葉を共にミキサーに掛けて濾した。檸檬を少し搾り、コップに移して其れを飲んだ。飴の様な色をした其れに清人が反応を示した。
「何ですか、其れ。」
「ジュースよ。飲む?」
目の前で人参が投下されたのを見た清人が飲む筈無いのは判って居たが、からかいついでに云った。しかし清人は、渡されたコップの匂いを嗅ぎ、あれ、と首を傾げると口に付けた。
「林檎がもう少し欲しいです。」
まさか在の清人が、細切れの人参さえ跳ね退ける清人が此れを飲んだ、そして注文迄付けた事に雪子は衝撃を受けた。
「飲めるの…?」
「はい、平気です。僕、林檎好きなので。」
林檎の匂いもするが、人参よりも強烈な匂いの和蘭三ツ葉に清人は一切の嫌悪を見せ無かった。
「和蘭三ツ葉、平気なの?」
「嗚呼、此の独特な匂いはセロリですか。」
「セロリ…?」
違う、初めて聞いた名前を云われ、雪子は首を傾げた。
「和蘭三ツ葉はセロリとも云います。」
「嗚呼、そうなの…」
自分より学のある清人に雪子は複雑な思いを抱き、林檎と和蘭三ツ葉を倍に増やせと空になったコップを雪子に返した。
「人参…」
細切れさえ全て跳ね除ける人参を容易く胃袋に収めた清人に雪子は面白く無く、しかし清人は涼しい顔をして居る。
「平気です。僕、シナモンとか薄荷とか、そう云う匂いは平気なので。」
シナモンとは又ハイカラな、と雪子は其の大人びた清人の舌に感心した。反面、在の馬鹿息子は如何にかならないだろうかと、喚く折の声に溜息を零した。




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