男花魁・浮雲
陶器で作られた雛人形みたく“其れ”は其処に居た。柵の中から自分を見て居る訳でも無く、通り掛かった黒猫楼の二階窓から“其れ”は私を見て居た。飴玉みたいな黒い目で私を見据え、私は其の目に持って居た水桶を地面に落とした。跳ねた水は冷たく、他の楼前を水浸しにしてしまった事に私は酷く狼狽した。水桶は取っ手が抜け、柄杓が泥に塗れた。
見上げた“其れ”は、そんな私を鼻で笑った気がした。
「大丈夫か?」
現れた楼主に私は何度も謝り、けれど気持は上に向いて居た。今一度見上げると“其れ”は私に向かって「馬ぁ鹿」と口を動かし、高く結わした髪を見せた。
取っ手の抜けた桶は何とか直せたが、又水を汲みに行かなければならない事に私は溜息を吐いた。
戻った私は案の定、楼主に怒鳴られ、水汲み一つ正面に出来ゃしねぇ屑、と罵られ、他の女郎達には、客も付かない狸、と入口に置いてある狸を見て云われた。
水揚げするにも器量悪ぃ、付き人にするにも要領悪ぃ、帯に短し襷にゃ長しとはまさに御前だな。
毎日楼主に云われ、傷付きはしたが事実だから文句は云わない。そんな私を癒してくれるのが花里姐さんだった。
「本当にねぇ、御前はねぇ。如何仕様も無い屑だねぇ。」
店が始まる前、こうして姐さんの膝に頭を乗せ、呪文の様に繰り返される言葉を聞いた。姐さんは良い匂いで、奇麗で、何故私を可愛がってくれるかは判ら無かった。
「御前もねぇ、浮雲みたく器量が良けりゃあ、無愛想でも幾分使えたろうにねぇ。馬ぁ鹿。」
「浮雲…?」
其処で私は“其れ”の名前を知った。在の時“其れ”が云った「馬ぁ鹿」に見覚えがあったのは簡単な事で、姐さんの口癖だった。
“其れ”を今日見た事を云い、奇麗な雛人形だったよ、と伝えると姐さんは笑い、笑い転げた。
「彼奴は男だよ、馬ぁ鹿。」
男の“其れ”に負ける自分の器量。知れて居た。けれど悔しい等と云う気持は全く無い。私の器量が悪いのは事実であり、“其れ”が私より遥かに器量が良いのは事実だった。男だろうが女だろうが、“其れ”が美しい人形なのは確かだった。
「楼主の新は絵師でね、其れはもう写真みたく上手いんだよ。」
此処に居る花魁達は勿論、部屋持ちで無い女郎達も描いて貰って居た。此の楼主に描かれた女郎は何故か不思議と大客が付く、御前も一度描いて貰うと良いよ、と姐さんは笑い、でも生憎私は水揚げ前だった。そんな人間に大客が付く訳は無いので、適当に返事をした。
其の翌日、私は在の楼、黒猫楼の前を水浸しの泥塗れにした事を楼主に知られ、朝から水桶と柄杓で殴られた。底で殴られた桶は完全に壊れ、柄杓で頭をぽこぽこ叩かれた。
「此の屑っ此の屑っ。他の楼に迄迷惑掛ける馬鹿が居るかっ」
何故楼主が知ったのか、私は知らない。知らないが想像は出来た。在の楼主の声を数分前に聞いたのだ。
「そう云えば、水桶大丈夫か?」
「水桶?」
「昨日、此処の新造が…って…。内緒だったか…」
こんな流れだったに違い無い。頻りに楼主は、俺が知らなかったら黙ってた積もりだろう、と云って居た。何処迄も使えねぇ屑、と柄杓でもう一度叩かれ、在の楼主に詫びを入れて来いと放り出された。
「酷い有様だな。」
私を見た楼主の開口一番は其れで、そうでしょう、と返してやった。其の返しが気に入ったのか、楼主は自分の横を叩くと私を座らせた。
「嗚呼、此れは酷いな…」
私は詫びを入れに来た訳で、手当をして貰う為に来た訳では無い。けれど私は何も云えず、大客を呼ぶと云う其の指先を見て居た。骨張った細い指で、根からの芸術家の指先をして居た。
「藤波さーん。」
「へぇ、何どす?」
額に楼主の息遣いを知り、擽ったかった。身を捩ると、嗚呼悪い、と痛みでそうしたと取られた。
「包帯。あったろ?」
「何に使わはるんどす?」
「一寸な…」
目尻の傷を見た侭楼主は云い、細い人差し指を斜め右に向けた。其れを私は追い、又指は動き、私は追った。
其の時だった。追った目線の先に“其れ”は現れた。姐さん以上の派手さを蓄えた“其れ”はゆっくり階段を下り、裾の引き摺られる、詰まり“其れ”の足音を聞いた。
真直ぐ前を見た侭、首から上を微動させず動く“其れ”は、歩く雛人形だった。首は全く動いて居ないのに、其の飴玉の様な目は私は捉え鼻で笑った。微かに動いた口元は微かに開き、「馬ぁ鹿」、そう云った。
私は“其れ”を追って居た。楼主は私の目を追って居た。
“其れ”が楼主の真横に来た時、私は楼主と目が、合う訳でも無く、ずっと“其れ”を見詰めた。
楼主と目が合ったのは直後だ。
“其れ”が私に目を向けたもんだから私は緊張で横に流した。そうしたら似た様な飴玉が私を見て居た。
「目は問題無いよ。」
忘れて居たが、私の目尻には楼主の指先が触れて居た。他人の存在を忘れる程“其れ”の存在は異風だった。
「兄はん、此れで宜しおすか?」
又現れた人間に私は、頭の中がぐるぐる回って、声が反響した。
男。
男。
皆、男。
奇麗な姿をした人間も、私を診る楼主も、ずっと掃除をして居る衆も、男。
人間達の姿が変形し始め、聞こえる声も篭り、私を取り巻く全てがあやふやだった。
「おい、大丈夫か?」
鈴で調子を取って居る様な耳鳴りが酷くて、周りもあやふやで、楼主の飴玉は溶けて居た。はっきりと確かなのは“其れ”だけだった。頭から伸びる簪が丸で蜘蛛の足みたくで、だから私は思わず云った。
「女郎蜘蛛…」
“其れ”は笑った。
何で御前は知ってるんだ、と云う顔で。
“其れ”には確かに糸がある。白濁した糸を出し、仕掛け、そして当たり前に喰らう。
顔が痺れ、手先も痺れる。心の中で何度も、御願い食べないで、を繰り返した。けれど“其れ”はそんな私を楽しんだ。
声で埋め、指で弄り、糸で縛る。“其れ”の全てで私を食べた。
「水揚げ前かよ、道理で野暮臭い。」
「今更…」
奇麗な“其れ”は醜く顔を歪めた。
其れから私は、何人もの男に抱かれた。けれど、“其れ”より奇麗な男だろうが、在の時“其れ”が私に教えた手首を縛る紐の感触と足に垂れる糸の熱さを、私はずっと忘れはしなかった。
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