息が凍りそうな程寒い日に出会った。鉛雲から白い物が落ちて来、其の嫌悪に男は目に止まった洒落た西洋喫茶店、カフェと呼ぶらしい其処に足を向けた。外とは対照的に蒸し風呂の様な店内の暑さ。此の寒さの所為でか店内は人で賑わい、テーブル席は埋まっている。男は仕方無く、カウンター席に腰を落ち着かせ珈琲を頼んだ。カウンター席もテーブル席同様混んでいるが、男は構わず横の椅子に荷物を置いた。入口付近の席の為、出入りがある度寒い。暖まっているのか凍えているのか判ら無くなる。
男は本と珈琲を楽しみ、三十分程経った。
「あの。」
「はい?」
声を掛けられた男は本から顔を上げ、驚いた。声を掛けて来た女が身内に良く似ていたのだ。
「此処に荷物置いても?」
男が荷物を置く席のテーブルを指し、女は聞いた。
「え、ええ。如何ぞ。」
有難う、と女ははにかみ真直ぐ背筋を伸ばし座った。
又本に目を戻し、灰皿の中で忘れ去られた煙草を消した。フィルター迄焼け、灰の崩れる軽い感触に固いフィルターの感触。男は其の、不思議な感触が好きだった。忘れた侭の煙草は、運が良く無ければこう為らない。大概は、元から灰皿にある吸い殻と一緒に燻り、煙草の先に繋がる灰を崩す前に灰皿の中に落ちる。男には其れが、在る種占いの様に思え、今日は二回も其の感触を楽しんだ。此れは中々運が良いと薄く笑い、深く息を吸った。鼻孔一杯に広がる甘い匂い。男は其れが何か判らず、匂いの元を辿った。
嗅いだ事も無い、やたら甘ったるい匂いは、女の持つカップからであった。
濃い茶色に薄く白が流れている。匂いだけでも男はむか付きを覚えたと云うのに女は其れを平然と飲んでいる。和む女の顔を、見世物小屋或いは珍獣の様な目で男は見た。
「其れ、何です…?」
男は堪らず聞いた。
「え?」
其れ、と男は女の持つカップを指し、嗚呼、と女は顔を綻ばせ云った。
「ココアって云うの。」
「ココア…?」
聞けば其のココアと云う飲み物、男が大嫌いなチヨコレヰトを砂糖を入れた熱い牛乳で溶かした飲み物と云うでは無いか。聞いただけで男は吐きそうな顔をし、引き攣り笑いで本に視線を戻した。何と云う人種だ、正に珍獣。
しかし男はふと考えた。
男には、対の兄が居る。其の兄の味覚は女と同じに、異常な甘さを求める傾向にある。作ってやれば喜ぶに違い無いが、味見をする勇気、男は持ち合わせていなかった。唯其の匂いだけは確かに覚えた。帰りにチヨコレヰトでも買って帰ってやるかと、男は本を閉じると椅子に置いた荷物を取った。テーブルから少し出ていた女の荷物に男の荷物が当たり、床に落ちた。ばさりと封筒から中身が出、表向いた封筒に印された出版社名を男は口にした。
女は、ジャーナリスト気取りの編集者だった。
「公爵と、同じだ。」
「え?」
「いや、知り合いの物書きさんが其処で書いているから。」
「え…?」
男は何と無く云ったのだったが女の顔から色が消えた。
「此処、で…」
「そう、其処で。」
「此の出版社…何をしてるか、貴方知ってるの…?」
「反国剥き出し軍批判、だろう。」
とは最後迄云え無かった。男の口は女の手に塞がれたのだ。
此の出版社、表向きは違う名前で活動している。しかし裏では、此の封筒に印される出版社名で反国活動を行っている。其のアンダーグラウンドの社名を知っていた男に、女は引き攣りを見せた。
「貴方、何者…」
女は呻くが、口を塞がれた男は答え様が無かった。なので塞ぐ掌を舐めてやった。
印刷インクの味がした。
「ならず者。」
「でしょうね…」
此れが、後の“愛憐情死事件”と呼ばれる、第一次戦後最大級スキャンダルの始まりである。




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