偶然の産物


世の中には、俺よりもっと悲惨な人生を歩んで居る奴や其の状況から抜け出せない奴は居る。俺は偶々運が良かったに過ぎない。本当に。
俺の実母は酷い薬中だった。終始支離滅裂な事を喚き、大人しいかと思えば、涎垂らし糞みたく床に伸びて居た。余りに部屋が汚いので片付けると殴られた。隠した薬を如何にかすると捉え、理不尽に殴られた。当然乍ら、俺は母親が大嫌いだった。
父親は居た。居たが居ないも同じだった。此奴は重度のノイローゼで、毎日毎日部屋の中を歩き回って居るだけだった。母親がヒステリーを起こすと慌てて逃げ出し、内側から鍵を掛けた。唯俺は、こんな父親だが同情はして居た。こんな女と何年も一緒に居るのだから無理も無い話だと。
俺だって、発狂寸前だったんだ。
母親は毎日何かと戦って居た。詰まりは幻覚幻聴妄想の類だが、戦って居た。居もしない父親の愛人に文句垂れ、良く判らないが誰かが殺しに来るらしい。俺は幼い乍ら、其の妄言が現実であれば良いのにと思って居た。
抑此の母親、俺が息子だと知らないらしい。俺の顔を見る為り「あたしを殺しに来たんだろう」「殺される」と喚き乍ら、俺を半殺しにした。頭蓋骨に皹が入っても構い無し、抵抗するのも面倒臭く床に伸びると、「漸く死んだか」とバスタブに放り投げられた。タブイコール墓穴らしい。此れで少しでも動くと「未だ生きてるのか」と箒で沈められた。此れは本当に死ぬんじゃ無いかと墓穴から這い上がると、死体の癖に絨毯を汚したと又殴られた。
父親は一応だが、俺を認識して居た。如何認識して居たかは判らないが、息子とは判って居た。ノイローゼの癖に妙に優しかった。「在の女に見付かるなよ」と数日に一回の割合で、食事を呉れた。そう俺は、数日に一回しか食事をして居なかった。其れでも不思議と人間とは生きるもので、道理で母親がくたばらない。母親は毎日食べて居た。俺と父親には与えないで。
何故父親が食料を確保出来たかと云うと、母親は薬中に加え、酷い淫乱だった。
詰まりはそう云う事。
ノイローゼの男相手に女王様を気取って居た。
父親は大層嫌であっただろう、だって母親は風呂に入らない。風呂には俺が居るから入れない。考えただけで吐き気がした。
嫌じゃ無いの?と聞くと、こうでもしないと御前に食わせて遣れないから、と云う。
こんな両親で何故家に金があるかと云うと、俺には随分と歳の離れた兄が居た。一度も会った事無く年齢も知らないが、両親の年齢からして社会人であろう。其の兄が、金銭的に面倒を見て居た。
何故か。
金が無くなれば他人に迷惑を掛けるからである。
なので監獄同然に家を与え、光熱費を払い、金と食料を与える。良く出来た兄だなと、一度も会った事無いが思う。仕送りの殆どはイカレ女の薬に消えたが、俺達は生きて居た。
俺が施設送りに為ったのは、本当に偶然だった。
母親が等々、他人に危害を加えたのだ。警察に連行され、其の引取人に兄が指定、初めて家に来た兄は思考が停止して居た。
俺も停止した。
大変身形が良く、金持ちの匂いがした。此れが兄なのかと、驚いた位に。
「君は、誰だ…」
俺を見る為り兄はそう云った。
「監禁されてるのか?名前は?」
そう、兄は、俺の存在を知らなかった。歩き回って居た父親が「息子」そう云ったので兄は漸く、俺が此のノイローゼ男とイカレ女の子供で、自分の実弟だと知った。
「何時生まれたんだよっ」
兄は父親に聞いた。
「何時だったかな…、昨日かな…」
「昨日生まれて、こんなでかい筈が無いだろうっ?母さんっ」
此れが間違いだった。
俺の事を聞かれた母親は矢張りヒステリー起こし、「あたしを殺す気か」と箒で殴り出した。兄は頭を抱え、夫婦二人なら放って於いても問題さえ起こさなければ良かった。然し俺の存在は打撃を与えた。
そうして俺は、施設に送られた。
其処で問題が発生した。
俺の存在は、世間にさえ無かった。考えれば判るが、在の両親が出生届を出せる筈が無い。名前は疎か、正しい年齢も判って居なかった。育児放棄の所為で成長は乏しく、推定年齢八歳、其れもかなり成長の悪い、と医者は云ったが完全な間違いであった。正確な年齢が割り出せたのは最早奇跡。兄は必死に両親の周りを調べ、今では完全に疎遠だが、母親の友人が、俺を妊娠して居る時を覚えて居た。
「十二年前よ、確か。名前何か知る訳無いじゃない。生まれてるか如何かも知らないのに。」
兄は頭を一層抱え、兎に角俺に名前を付ける事に専念した。名前が無ければ出生届を出せないからだ。
「我が子に名前を与えた事すら無いのに…」
兄は良い年こいて独身だった。
其れは良いとして、俺に名前を与えたのは、孤児院のシスターだった。
「マシュー、は如何かしら。」
「マシュー…?」
「マタイです。」
安直かしらと眉落とすシスターに、流石はシスター、素晴らしいと兄は絶賛し、其の日から俺はマシューに為った。
此れが、今の父親達が、俺を引取る時に抱えて居た問題。生後間もない赤子なら未だしも、十二歳の、然も両親がきちんと、両親自体はきちんとして居ないが存在して居る俺は、中々に裁判所と管轄の許可が下り無かった。両親が居るのだから最初に両親のラストネームを付け、其れからそっちの名前に云々。
兎に角面倒臭かった。
「在の両親の名前を、一瞬でも彼に与えるのか?此れじゃあ本当に、在の子は在のイカレた両親の子供って決定されるじゃ無いか。そんなのは余りにも酷い。神は一体何処迄マシューを侮辱するんだい。其れが神と云うなら、俺は神を恨む。」
父親の一人は弁護士に異議を唱え、続けてもう一人の父親が云った。
「そんな事、例え神が許しても、俺の父親が許さん。御前等全員、一生職無しに為る覚悟はあるか。」
余りにも横暴だ、と弁護士の一人は云った。そうしたら次から、其の弁護士の姿は見なく為った。此の二人の本気に、一番困って居たのは他でも無い、兄だった。
「暴言と捉えないで頂きたい。ミスター ベイリー、何故、其処迄拘るんだ?」
すると二人はこう云った。
「マシューに名前が無かったのは、此の為。俺達が本当の両親だから、偽りの両親の名前は付けられない。」
「マシューは、生まれた時から俺達の子供だ。」
「御免ねマシュー、御帰り。キースが全部悪いんだ。」
「十二年前、ヘンリーと喧嘩して、むしゃくしゃしてたから、偶々目に止まった家の玄関先に捨てたんだ。まさか、見付からなく為るなんて思わなかったんだ。直ぐに警察か保安官が連れて来るだろうって。浅はかだった、通報もしないクレイジーな家だったんだ。」
「酷い父親だろう?一週間口利いて遣らなかった。」
「一週間?半月だ。半月家に帰って来なかっただろう。然も居たのは伊太利亜。」
「伊太利亜に居るかもって思ったんだよ。…居なかったけど…。」
「子供を無くした父親の、帰宅第一声は、パスタ美味しい、だ。覚えて於け。」
「在れは違う。息子を捨てられたんだよ?ショックで暴飲暴食に走った、詰まりはキースの所為。恨むならキースを恨んで。大体君が……………」
ブロンドの男はヘンリー、ダークヘアーの男はキース、二人の名前を組み合わせて“ヘンリース”、マシュー・ヘンリース・ベイリー。
生まれて初めて、暴力暴言以外の物を貰った。
俺は、母親に虐げられる度神を呪った。食料を与える父親を恨んだ。母親がくたばらないのなら、逸そ楽にして欲しかった。何故生きて居るのか、何故神は俺を殺して呉れないのか、其ればかり思って居た。
父親は重度のノイローゼ、だけど、いや、だからなのかも知れない。自分が本当の父親じゃない事を知って居た。愛情では無く同情で食料を与え、此の二人が、現れるのを待って居たに違いない。其れ迄何としてでも生かせて遣ろうと、ノイローゼ男は頑張って居た。
そう思うのは、俺が此の二人の息子だと正式に認められた一ヶ月後に自殺したから。女王だと君臨するイカレ女のイカレた世界を作り出すイカレた頭を鉈で叩き割って。
兄とは、其れ切り会って居ない。俺達は始めから他人だったんだ、と。俺も別、兄に対して感情は無かった。
唯、地獄と云うのは、本当に存在した。
母親と居た時が地獄だと、俺は錯覚して居た。楽園と偽りを持つ地獄に、俺は苦労した。今更人間の生活が出来る筈無く、此の二人が悪魔に見えた。
兎に角破壊した。此の楽園を。
母親が「殺される」と喚いて居た理由が、此の時はっきりと判った。
俺は此の時は未だ知らなかった。何故感情が制御出来無いのか、何故こんなにも恐怖を感じるのか。
在の母親から生まれたのだから考えれば判りそうだが、俺は、クラックベイビーだった。
母親の感情が乗り移ったが如く、部屋を目茶苦茶にした。後で殴られるに違いないと怯え、けれど感情は抑えられ無かった。一通り暴れるだけ暴れ、不思議な顔付きでドアーに凭れる二人は何かもう、大天使の様だった。
「気は済んだか?」
苦笑う二人。
「又派手に遣ったねえ、次はどんな部屋にし様か。キースの趣味は御気に召さなかったらしい。」
キースはガブリエル、ヘンリーはラファエルみたいだった。
ガブリエルは破壊された部屋を文句垂れ乍ら片付け、ラファエルはと云うと、罪悪感で打ちのめされる俺に優しく微笑み、羽交い締めにした。其れは抱擁みたく優しい物で、自惚れかも知れないが俺には抱擁だった。
「新しい家具を買いに行こう。マットの趣味で、吟味してね。そうしたら破壊する時、嗚呼此れ、気に入ってるんだよな…って躊躇うよ。」
「怒らないの…?」
原形を留めないカーテンを廊下に捨てたガブリエルは俺を一瞥した。
「何で?」
「だって、こんな…」
云って荒れ果てた部屋に言葉を無くした。本当に自分がしたのか疑問だった。
「別に御前、嗚呼糞っ垂れなホモ野郎共が、って俺達を困らせたい訳じゃないだろう?」
「そうそう、キースの趣味が気に食わなかっただけでしょう?俺もこんな部屋、嫌だもん。マットじゃなくても破壊衝動に駆られるよ。」
「御前のごてごてしたクレイジールームよりマシだろう。」
「いいや、殺風景な部屋程クレイジーな部屋は無いよ。虚しさを覚える。マットもそうだったんだよ。」
俺がキースよりヘンリーに懐いたのは、此の所為だったのだろう。
ラファエルは、俺よりずっと、存在の無い恐怖を知って居た。
彼等は決して、怒らなかった。其れ所か、こんな俺を抱き締め、諭した。だから俺は応えた。二人が望む様な良い息子で居様と、けれど自分は決して殺さなかった。自分を保った侭周りに応え合わせるのは容易では無いが、此れが人間なのだなと知った。
自分を殺した先にあるのは、破滅。だから決して、自分を殺すな。そう二人は俺に教えて呉れた。
そしてもう一つ教えて呉れた。
「君は愛される事を此れから覚えるだろう、でもね、人間に一番大切なのは、愛される事じゃない。愛する事だよ。」
行き成り人間相手には無理だろうからと、犬を呉れた。此奴が又、俺同様に狂暴で敵愾心の塊だった。何度も捨てて遣ろうと思った、何度殴って遣ろうか考えた。
「愛は無償だ、見返りは求めるな。殴って従わせても、其処にあるのは愛じゃない。」
其れは俺が良く知って居た。
リスキーが俺に教えて呉れたのは、制御する心と愛と命の重さ、そして触れ合う楽しさ。此の家にはリスキー以外にも、ドッグシェルターと錯覚する程の犬が居た。トップに君臨するのはヴィヴィアンで、俺は最初、彼女より下だった。彼女が前方から歩いて来ると、透かさず道を譲った。他の犬にも馬鹿にされたが、意思疎通したリスキーが一喝すると面白い様に大人しく為った。
他は、まあ普通だった。ヘンリーはヒステリーでも無く寧ろ何時も笑って居る母親、キースも威圧感はあれど何処にでも居る一寸ばかし性的にだらし無い父親。此の二人の関係が漸く理解出来始めた頃、実は逆だった事を知る。ヘンリーがパパでキースがママ。からかって「ママ」と呼んで遣ったら案の定睨まれたが、ちっとも怖く無かった。此れで知ったのだが“ママ”と云う生き物は、性的にだらしが無いんだなと。
キースは全く怖く無いのだが、ヘンリー、此の父親は死ぬ程怖い。俺が未だ、感情を制御出来無い時期、当然学校に行って居た。突如感情が湧き出、教室で喚いた。問題児のレッテルを貼られ、喚く度ヘンリーが呼び出された。来るのは何時もヘンリーだった。俺には未だ判らなかったが、キースの立場は俺が考えるよりずっと凄く、俺の保護者として現れた日には英吉利がひっくり返ると云われた。俺の保護者の欄には、当たり前だが父親の欄、ヘンリーの名前しか無かった。
其の奇行の所為で「サイコ野郎」とからかわれた。其れに対しては我慢して居たが、等々我慢出来ずイカレ女譲りの箒技で其の生徒を目茶苦茶にしてしまった。
何時もなら放課後、ヘンリーの仕事帰り迄学校で大人しくして居るのだが、此の日は流石にそんな悠長な事は云って居られ無かった。ヘンリーが仕事着、詰まり軍服で現れ、陸軍のジープが学校に乗り込んで来たのだ。側近従え、英国陸軍大将が険しい顔でジープから降りて来たものだから教師全員が固まった。危害を加えられた生徒も「軍事裁判に掛けられるんだ」と放心状態で震えて居た。
「マット、此れで殴ったの?」
生々しく血の付く箒をしげしげ眺め、「最高」と笑う。
「最高…?ベイリーさん、マシューが何をしたか判りますか?箒で殴ったんですよ?尋常じゃない。笑う前に謝罪為さるべきではありませんか?」
そう担任は云った。するとヘンリーは、凄く面倒臭そうな顔で生徒の前に立った。
「痛かった?」
「そりゃあ、勿論…」
「御免ね、治療費は出すから。そう親御さんに云って於いて。でもね、先に謝るのは君達だろう?」
俺が一方的に殴ったのに、何故彼等が俺に謝るのだろう、俺は無傷なのにと思った。
「確かにマットは君達を殴った、然も丸腰の相手に武器を使って一方的に。此れは決して許される事じゃないし、きちんと聞かせないといけない。でもね、過信かも知れないけど、俺の息子は、理由無くそんな事する子じゃない。君達に聞くよ、何で殴られたの。」
澄んだ奇麗な目は、吸い込まれそうな程だった。
「知らないよ…、マシューが一方的に…」
知らない、そう云われ腹が立った。俺は確かに感情の侭に暴れはするが、人には絶対危害を加えない。殴られたら痛い事を、身を以って知って居るから。だから絶対に人には手を出さなかった。
「嘘吐けよ、御前が先に突っ掛かって来たんだろうが。毎日毎日支離滅裂な事ばっか云ってんのそっちだろうが。宇宙人と話してるみたいだ。大体さっきだって、御前の好きな女が俺に惚れてて腹立つとか難癖付けて、足引っ掛けて来ただろうが。捻って痛いんだけど。授業中はゴミぶつけて来るし、鉛筆折ったのも御前じゃん。レポート捨てたのも御前じゃん、俺在れの所為でF評価貰ったんだけど。後、三日前に隠した鞄返して。」
箒を振り回す様に、舌を回した。自分でも驚いた程すらすらと言葉が出た。
「君達は殴られた、其の傷は目に見える。痛いだろう?マシューも同じ、見えないだけ。箒で殴られる以上に痛いんだ、言葉で心を殴られるのは。君達はマシューを傷付けた、其れは君達には見えないから判らないかも知れない、でも判ったろ?君達の傷は、マシューが受けた傷、結局は自分に戻って来ただろう?マシューは一寸激情型だから倍以上で返って来る、其れは本当、謝るよ。人を傷付けると、自分が傷付くんだ。其れを良く、覚えて於いて。此れは、誰も教えて呉れない。幾ら頭が良くても、一生知らない侭の人も居るんだ。」
彼等は無言で俯き、少し納得いかない表情でだが小さく謝罪した。
「鞄は返す…、レポートも、先生に云う…」
「ゴミぶつけて、御免…」
「箒で殴って御免。今度からは手で殴る。そしたら自分も痛いから、二度と殴ろう何て思わない。」
一生ヘンリーには勝てないと思う。本気で子供にぶつかって来る大人が、怖いくない訳無いだろう。
二人は常に、俺に道を教えて呉れた。キースみたく舗装された道を目隠しされた侭上品に歩く訳でも、ヘンリーみたく獣道を突き進む訳でも無く、普通に歩いた。「こっちじゃない?」とヘンリーが云うと「こっちもあるぞ」とキースが云う。二人は常に沢山の道を与えて、そうして、間違った時は必ず連れ戻して呉れた。
運命何て物は存在しない、喧嘩ばかりする二人だが、此れだけは意見が一致して居た。偶然が連なった其れを皆運命と錯覚する。
俺は断言する。此の人生は決して間違いじゃないと。
周りは俺の生い立ちを聞くと決まって同情或いは侮蔑するが、ならば聞くが完璧な人生って?両親が揃い、金があって、きちんと教育を受け、人間に恵まれ有り余る愛情を貰う事?相思相愛の相手が居て、子供が居て、仕事がある事?笑顔を交わす相手が居る事?偶には馬鹿な事をする事?其れが完璧な人生と云うのなら、決まってる。
俺程完璧な人生を歩く奴は居ないと、断言出来るね。




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