龍の逆鱗に触れし者


脳天から貫く彼の怒号に身体はびりびりと震えた。此れは恐怖からか、彼の声量か、或いは両方―――俺の身体は電気を流されたみたく震える。
「何度云っても判らん此の馬鹿が。辞めて仕舞え。貴様等俺の部下で居る資格等無いっ、辞める気が無いなら死んで仕舞えっ」
嗚呼、申し遅れました。今現在、上司である本郷中尉に怒鳴られて居る俺は、小野田です。覚えてらっしゃいますでしょうか。本郷抜刀隊壱班班長、本郷中尉の右腕小野田です。陸軍名物“脳天気コンビ”の片割れです。子沢山の小野田です。
報告書を顔面に叩き付けられたのは数分前、其れから数秒の後、烈火の如く怒り狂った本郷さんの声を聞いて居ます。
「此処はそうじゃない、こう書けと、俺は再三云って居る。此れでは現状が判らんだろう…」
「済みません…」
「結果には過程がある。行き成り結果だけ書かれても、俺も上も納得も理解もしない。御前の独断にしか為らない。俺が指示したのなら指示と書け。無いなら独断だと書け。再三云ってる。」
「済みません…」
「済みませんでは無いだろうっ」
「相済みません…っ」
本郷さんの怒鳴り声に重度の緊張を強いられ、目が乾く。乾いた目は知れず涙を溜める。
「泣く位なら拾って書き直せっ」
「只今…」
「本当、誰だ、こんな使えない奴押し付けたのは…」
机に向かう途中で聞いた本音、気分悪いと席を立った本郷さん。上司の消えた部屋で、俺は不甲斐無さで机に突っ伏した。横の席の同僚に慰みは貰ったが、此の報告書の何が悪いのか全く判らない。
「おいおい…今の何だったんだよ…」
本郷さんが出た本当に少し後、隣に部屋を構える井上中尉が、五十嵐連れて顔を出した。然し、本郷さんが居ないのを見て取ると髪を掻き、舌打ちをした。
「誰が何遣らかしたよ…」
本郷さんの在の怒号、九月半ばである為窓を開けて居た。隣に迄聞こえる怒鳴り声、俺の身体が痺れたのも無理無い話しである。
「自分です…」
「小野田かよ…」
理由を説明する為に報告書を見せると、煙草を咥えた侭見、「こら駄目だわ」と火を点けた。
「八割は出来てんだよ、でもな、報告書ってのは誰が見ても判る様にしねぇと。」
云って五十嵐―――直人に渡した。直人は暫くは理解して居た様子だが、三枚目の頃、三枚目と二枚目を何度も往復し、計五枚の報告書を読み終えた。
「判った?」
井上中尉は直人に聞く。直人は小さく数回頷き“まあまあまあ”と云う感じ。
「全体の流れは判ります。唯…」
「唯?」
「誰が突入。捕獲したんですか…?指揮は誰ですか…?独断ですか…?」
此の馬鹿野郎が、前を見たら判るだろうが。
うんざり俺は直人に説明したが、「だったら初めからそう書け」と本郷さんと同じ事を云われた。
「何で?判らないのか?」
「俺はね、俺は、小さい頃から聖四郎と一緒だから、文章が独特なのは知ってる。だから長年の勘で“こう云う意味何だな”って判るよ。でも、他には伝わらない。此の報告書は、何て云うか、聖四郎の頭の中の要点を纏めた見たいで、全体は見えても詳細が判らない。詰まり、意味が無い。結果なら、上は知ってるでしょう。報告書って、何で出すか知ってる?俺は馬鹿だから、判る様に一々書かなくて良い事迄書いちゃうんだ。」
直人の言葉に何も云えず、報告書を返して貰うと、二枚目と三枚目の間にもう一枚詳細を入れた。
機嫌直した本郷さんに其れを渡すと漸く受理して貰えた。
其の日の終業、本郷さんは俺に残る様云った。又怒られるのでは、或いは失望の意を聞かされるのでは無いかと、掌に汗が滲んだ。
暫く本郷さんは無言で、窓の外を見て居た。
「随分と、涼しく為ったな。」
「軈て、秋ですね。」
「変な奴だな、もう秋じゃないのか?」
「未だ、暑いので、感覚は夏です、自分は…」
「そうか。」
此の時代の男にしては随分と長身の本郷さん。窓枠に両手を突き、盛り上がる肩を眺めて居た。

――本日依り配属に為った本郷だ。俺は、先の中尉殿みたく優しくは無い、心して於け。

本郷さんは、俺が此処に配属された三日後に配属された。
吊り上がった一直線の目、青白い白目に浮かび上がる鋭く光る黒目、俺達全員見渡す事可能な程の頭二つ分抜き出た身長、本郷さんの全てに身体が固まった。
寺の観音掛け軸からそっくり其の侭抜け出した様な本郷さん。
或いは、空を悠々を仰ぐ龍。
龍の背に乗る観音を、俺は見たのかも知れない。

――観音様、みたいですね…

思わず口から出て仕舞った俺は慌てて口を塞いだ。

――観音…?

低い声は向いた。

――菩薩様と云う依りは、仏其の物の様で…相済みません…
――悪い気はせんな。

帽子越しに知った本郷さんの手の大きさ。本当に、仏に撫でられた気さえした。
「時に小野田。」
「はい。」
「一年見て来たが、御前はちっとも変化が無いな。」
除隊通告かと、目の前が真っ黒に為った。
俺が軍に入った理由は他でも無い、家族を養う為だ。軍の将校部隊に居れば給料は兵士依りもずっと良い。死んだ後の保証もある。だからと俺は訓練は厳しいが此方を選んだ。
全くの無駄だった。此れから先、七人の子供を如何遣って育てれば良いのか。
ぐらぐらと目眩で足元がぼやけ、立って居様と額を押さえ続けた。
然し。
「救われるよ。」
「はい…?」
「御前だけは、変わらないで居て呉れ…」
此の一年、先の中尉の微温湯に慣れて居た奴等は、半分下に落とされた。大幅に部隊は変わり、其れでも俺は此処に居た。
先の中尉の微温湯を知らない俺は、本郷さんに其れを望まれたから。
本郷さんを怒らせない様怒らせない様、皆思慮深く為った。神経質にも為った。隣の、同じ中尉部隊でも井上中尉の所は、何時も笑い声が聞こえて居る。時偶、「御前邪魔」と部下の一人が廊下に出され、鍵を閉められる位。其の都度本郷さんに「井上さんに取り入って」と泣き付く。渋々(違う人間が居ても此方も邪魔にしか為らないので)本郷さんは取り入り、暫くして井上さんに髪の毛引っ張られ帰って行く。
本郷さんの場合は怒号の後自分が部屋から出て行くので、空気は悪い侭だ。其れで胃を遣った奴も中には居る。本郷さん、此れは此れで結構悩んで居る。怒鳴れば相手をノイローゼにさせ、退職に追い込み、かと云って怒鳴らなければ本郷さんがノイローゼに為る。
基盤がきちんとして居ればこんな事には為らない。先の中尉が優しいだけの奴だったから、慣れた奴には怒鳴りでもしないと聞かない。
怒鳴られても全く変わらない俺、ノイローゼにも為らない。
「詰まり俺って、本郷さんの吐け口ですか…?」
「人聞き悪いな。」
「だってそうでしょう…?俺が脳天気だから…」
「神経質には脳天気って、決まってるんだよ。まあ最初はな、幾ら怒鳴っても唯ぽかーんとしてるから“此奴足りてないのかな”とは思ったが。」
「酷いです…」
「でも暫くして判った、頭が良いんだな、と。頭が良いから、俺を把握してるんだなと。だから御前、決まって静かに反論するだろう。」
「まあ、怒鳴っても、ねぇ…」
其の二十倍の怒号と罵声で返って来そうだから。
「変わら無いで、居て呉れよ…?」
―――俺を理解する人間で居て呉れ。
そう、云われた気がした。
中国の書物に、龍は飼い馴らせば背にも乗せて呉れる程、従順で大人しい生き物に為るが、然し、喉にある、一つ逆さに為った鱗に触れば忽ち獰猛と化す、と云う物がある―――詰まり此れが“逆鱗”の始まりだが、そんな如何でも良い事を思い出し、本郷さんが“癇癪玉の本郷”と上からも恐れられて居る理由が判った。
飼い馴らせば従順、一つの鱗を触れば猛獣。
此れは偏に本郷さんが“龍太郎”と云う名前だからいけないのでは無いか。
「本郷太郎に、改められては如何ですか?」
唐突に云った俺に、本郷さんは喉を詰まらす。
「嫌だよ…何故…」
「龍の怒りを鎮めるんです。本郷さんが短気なのって、絶対“龍太郎”だからだと思うんですよ。“虎太郎(コタロウ)”とか如何ですか?虎。龍よりは未だ可愛いです。」
「悪いが其の名は父親の名だ。売却済みだ。」
「そうですか…。虎位なら飼い馴らせて、背中に乗れそうかと…」
「龍でもな、今度背中に乗せて遣るから。」
赤とも橙とも付かない夕日を横顔に受け、本郷さんは俺の肩を二回叩いた。
「詰まり其れって。」
飼い馴らせてると、取って良いだろう。
喉の鱗に触れない様、明日も頑張ろう。




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