愛の挨拶


記憶にこびりつく音を夢現で捉えた。最後に聞いたのはもう随分と前、十年以上も昔。何故其の音が聞こえたのか、幻聴かと思い身体を起こした。
楽器は、本体が違えば音が違う。其れ位なら私とて知って居る。弾く人間にも依るが。
ヴァイオリン…。其れも唯のヴァイオリンでは無い。
兄のヴァイオリンの音が、確かに聞こえたのだ。
同じ様な弾き方なのかな、とうつらうつらと考えて居たが、矢張り如何考えても兄の音。其れに重なるもう一つの音、此方もヴァイオリンだった。此の音は、未だ幼い。が、兄の音に良く似て居た。後五年程したら、兄の音と変わり無いかも知れない。
風に乗って来る音色、もう少し良く聞こうと窓を開けた。
良く、聞こえた。
知らず知らずの内に私は口遊み、兄の姿を思い出した。
「春の匂いに誘われて、蕾緩ます桜かな。」
幼少時代、春に為ると兄が好んで弾いた、エルガーの愛の挨拶。私は其の前に座り、音色と身体を揺らす兄を笑顔で眺めて居た。
――歌詞って、御座居ませんのね、御兄様。
私がそう云ったら、兄は、次からは歌詞を付けて、歌い乍ら弾いて来れた。
「青い空に浮かぶ、淡い其の色。」
勿論此れは、兄が勝手に付けた歌詞である。何でも此の曲、私を見た瞬間兄が「あ、此奴に似合う曲だ」と思ったそうだ。
春先、生後四ヶ月程の私は、桜を見て笑ったらしい。其れが、“春の匂いに誘われて、蕾緩ます桜かな”。“青い空”は侭空でも良いらしいが、其の日、兄は青い着物だったらしい。
兄に抱かれ桜を眺めた私は笑い、青い色彩に私の白い肌は浮いた。見上げると、空と桜も同じだった。

春の匂いに誘われて、蕾緩ます桜かな。
青い空に浮かぶ、淡い其の色。
朝の光に照らされて、色に似合いし其の芳香。
少し色味を帯びて、甘く漂わす。
花が朽ちて散りゆく中、其の花だけは違う。
一つ一つ笑う様に落ちてゆく、花。
夜は月と遊んで謡う。黒い御空に御月様。
「又明日ね」と交わし、月が眠らない訳を知らない花は天を仰ぐ。
「不思議。」
「不思議って?」
「如何して貴方(月)は寝ないの?」
「寝たら誰が君の事、守れば良いの…?」
朝に為ったら又見えない、白さ。
夜に為ったら又見える、白さ。

“月”とは此れ、勿論兄の事。自分を月とは恥ずかしい兄である。
今でも判らないのは“見えない白さ”と“見える白さ”。
最初は在の自己陶酔の兄の事だから、白昼の月の事かと思ったが、兄に聞くと「何で昼に月が出てるんだ」と不思議がられた。
如何やら兄、白昼でも月が出て居る事を知らないらしい。私でも知ってるのに。
勝手に歌詞を付けた兄は、桜が散る様に消えて仕舞った。真相は判らないが、多分適当だろう。夜の次は朝と決まって居る。偶に昼な時もあるが、世間様はきちんと朝を向かえて居るので問題は無い。昼迄寝て居た私が悪いのだ。
「雪子さん。」
庭を歩いて居た雪子さんを見付け、誰が弾いて居るのか聞いた。
「一幸ですわ。」
音色も似ているとは此れ如何に、顔が似ているだけでも気味悪い事此の上無いのに不愉快な親子である。然しまあ良く聞くと、似ていて当然だった。兄のヴァイオリンを弾いて居るのだから。
雪子さんは庭から一寸家に顔覗かせ、暫くすると私の部屋に来た。持って居たファイルから紙を一枚抜き、私に渡すと椅子に座った。紛れも無い、歌詞の紙である。楽譜の裏に書かれている。楽譜が読めない私は、こんな物良く理解出来るなと、其れは尊敬した。
雪子さんは楽譜が挟まるファイルを一枚一枚捲り、裏を見る。そして時折「んふ」「んふふ」と笑う。此の笑いは「此奴こんな恥ずかしい言葉並べて頭おかしんちゃうか」と云う笑いである。
如何やら兄、勝手に歌詞を付けるのが好きだったらしい。何てみみっちい文字だ、目が、痛い。人間性が良く出て居る。女々しい野郎め。
死んでから女二人に恥部晒す事に為るとは、在の修羅でも堪えられまい。今頃、部屋の隅(多分在の辺)で赤面し、喚いて居るに違いない。今頃、燃やしとく可きだったと後悔しても遅い。実に傑作、愉快である。加納に見せて遣ろうか。在の白狐の事だから「おやまあ気持悪い」と大凡御前の方が気持悪い笑みの癖して、笑い乍ら拡大コピーして散布するだろう。
「和臣さんって、ロマンチスト?」
「さあ。唯のナルシストじゃあ御座居ません?」
「何か、宝塚の歌にありそうな歌詞ばかりですね。此の胸の情熱、萌ゆる赤薔薇、とか。」
雅さんに、歌って貰ったら売れるのでは無いか。在の顔で情熱も糞も無い。失笑物だ。
「何ですの…其れ…」
「西班牙舞曲集……?ですって。」
ほう、其れは又何とも興味深い曲名である。兄の情熱に興味は無いが。
「母上。」
楽譜強奪された一幸が泣きそうな顔で声を掛けて来た。
「楽譜…」
「待って、今面白いんだから。」
矢張り、嘲笑して居た。
楽譜が面白いと一度も思った事の無い一幸は(彼で無くとも思わないだろうが)、何が面白いのか判らず、雪子さんの横に座った。
「じゃあ、縦に持って下さい。」
雪子さんは裏の歌詞を、一幸は床に座り見上げる様にして楽譜を読んだ。最初口遊み、同じ所を弾く。其れを続ける事三分、楽譜一枚分を弾いた。
「嗚呼、ワタクシ其れ知ってるわ。」
「そんなメロディなのね。」
成程此れは、萌ゆる赤薔薇である。そして、女二人でくすくす笑って遣った。一幸が弾く、そして女二人で恥ずかしい其の歌詞を笑いを堪え乍ら歌って遣った。
「父上…泣きますよ…」
「こんな恥ずかしい物見付けた方が、涙出るわよ。」
全く其の通りである。
ファイルを一枚捲った雪子さんは、「ん?」と唸りを見せた。
兄の文字とは明らかに違う文字、覚えがあった。
「…兄上…かすら。」
と云う事は独逸語であろう。兄の書いた歌詞に「寒い奴」と赤ペンで書かれ、余白に独逸語訳が書かれて居る。そして其の下に又赤ペンで「独逸語にしたらいかす(良く判らない変なマーク)」と書いてある。
迫力はあったが、読めない私達は何処等辺がいかすのか良く判らない。兄も判らなかったに違いない(兄が判るのは英語と中国語だけである)。
唯、兄二人が心底恥ずかしい兄であると云うのは、嫌と云う程判った。妹であるのが、恥ずかしい。今兄上に見せたら「うちの汚点」とか何とか云い、滅却間違い無し。黙って於こう。
「一幸ちゃん。」
「はい?」
萌ゆる赤薔薇(歌詞が強烈過ぎて曲名を忘れた)の続きの譜面を読んで居た一幸は顔を上げ、私は愛の挨拶の歌詞を指した。
兄の歌詞を見ても恥ずかしいと思わないのは息子位だろう、実際笑いもせず楽譜を見る。
「弾いて下さるかしら。」
「私も聞きたい。」
私はこっそり聞いて居たが、家に居なかった雪子さんは聞いて居ない。歌詞が気に入ったのか、出来れば歌って、とも云った。
とは云うもの、弾けるが果して歌えるか、一幸は唸り、暫く楽譜を眺めて居た。
「父上程はありませんが…」
弦が震える。
小さな御兄様が、其処には居た。見えない白さって何ですかね、何て云い乍ら。
ふと私は、此れは夜桜の事では無いかと思った。白昼の桜は色が良く見え、白く見えない。一変夜には、白く見える。
…だから何だと思うので、結局の所兄にしか判らない愛の挨拶だった。




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