頭の中


グラスの中で踊る氷の音に、雪子は顔を上げた。小さい唇で自分の乳房を懸命に吸う一幸が堪らなく愛しいモノに思えた。
私の血が一幸の肉体に為る…。
そう考えただけで雪子は、自分が素晴らしい偉業を為して居る気分に為った。こんな自分でも、誰かに必要とされる、少なくとも今だけは、確かに一幸は自分を必要とする。
「赤ワインに、カシスとガスを入れた、仏蘭西のカクテル。飲むか?此の間飲んだサングリアは…ええと…伊太利亜?あれ依り甘さは無い。」
「西班牙よ。…もう少し、時期が過ぎたらね。」
雪子の返答にグラスを置き、和臣は後ろから食事中の息子の顔を覗いた。肉と皮に埋没した喉を動かし、目は半分しか開いて居ない。
「此奴、何が美味しくて、こんな物飲んでるんだ?昨日飲んだけど、大して美味しく無いぞ。生臭いしな。」
「焼酎の牛乳割り飲ます訳にはいかないでしょう。」
雪子はクスクス笑い、背中に知った体温に身体を預けた。
真っ白い雪子の肌、小さな乳房は青白い血管を見せ、固く張って居る。小さな其処に、生命の全てと血液が溜まって居るのかと思うと、不思議で堪らない。
「何で母乳は白いんだ?」
「白血球が死んだら白く為るの。膿は白血球の死骸でしょう?だから黄色くて白い。」
「嘘。じゃあ此奴は、死骸を飲んでるのか?」
「御免ね、適当よ。宗一さんにでも聞いたら?」
「一幸、ワイン飲むか?白ワイン。伊太利亜から届いた。」
「止めて。」
二人の笑い声に満足したのか、一幸は口を離すと数回口元を動かした。
「抱く。貸して。」
和臣の肩にタオルを乗せ、渡した雪子は乳房を拭くと衣服を整えた。ちょこんと和臣の肩に乗る一幸の顔、何回か背中を叩かれると勇ましくガスを出した。余りの勇ましさに和臣は驚きはしたが、腹から出る笑いに身体を揺らした。本人は満足げに口元を動かし、頬を肩に乗せた、
「此奴はでかく成るぞ、父親の肩で盛大に噛ました。」
「あら、和臣さん上手ね。御義母様にしか出せないのに。」
「母さんの子、だからな。」
一幸が雪子から乳を貰った様に、和臣も、雪子からグラスを口に付けて貰った。子供が二人、そう雪子は笑い、グラスを置いた。
「一幸、一幸。」
柔らかい髪を頬に擦り付け乍ら和臣は揺れた、揺れと背中の振動に段々と一幸の目は窄まり、雪子を一度見ると口元から涎を垂らした。
一気に重さが変わり、顔を覗くと、何の不安も警戒も無く一幸は寝て居た。小さな手を握り、口元に寄せた侭安心して居た。寝かせ様と手を伸ばした雪子だが、暫くこうしてる、と髪質を楽しむ様に頬を付ける姿に手を引っ込めた。自分が乳を与える時よりもっと、大事なモノを抱えて居ると云わんばかりの夫の顔、とんとんと背中を叩き乍らゆっくり立ち、窓に近付いた。ゆらゆらと揺れ、遥か向こうに浮かぶ月を息子に見せる光景は、ひょっとして私って世界一倖せなんじゃない?と錯覚さえ覚えさせた。
「御前が居る世界だから、俺は守るんだよ。」
父親は、何んな気持で父親に為るのか。女と違い何の自覚も無いのに、何を機転に父親と云う存在に為れるのか、雪子は不思議だった。世の中には、子供に全く興味関心抱かない父親も居る、雪子の父親が実際そうだった。父親が皆そうだと思って居たのに、木島宗一郎を知った時、余りの子煩悩さに驚いた。そして其の血を、誰依りも濃く受け継いだ和臣。
性格か。
性格が関係してるのかと思ったが、だったら今迄の和臣、一度でも父親の自覚があったかと云えば、余り良い返事は出来無い。一度でも其の自覚があったら、過去の悪行三昧は無かった様思う。
「和臣さん。」
「ん?」
「何時から?」
「ん?何?何が?」
雪子ですら何と聞いて良いか判らない質問と感情、和臣が判る訳が無かった。
「自分でも驚かないの?」
「…んー、一寸質問の意味が判らないんだよな。」
「そうやって、一幸を抱いてる事に。だって、貴方の子供よ?」
雪子自身、此の気持を如何説明して良いか判らず、頭に浮かんだ言葉を流した。そして雪子は、此れ、頭の悪い人間の特徴だが、答えも無いのに頭に浮かんだ言葉を口から出す。言葉が無い癖に口が勝手に、先に先に動く。結果、凡人相手にだと、此れ非常に会話が成立しない事態陥る。頭の悪い人間の言葉を、凡人が理解する知能が無い。
唯、雪子の場合は相手が良かった。人依り少し頭の回転が速い和臣。此れが海軍の馨程の速度と切れに為ると、此方も会話が成立しなく為る。和臣ですら馨の回転速度に付いて行けず、四苦八苦して居る。云って居る事は判るが、向こうが早過ぎて追い付けない。雪子並の頭の鈍さに為ると、天才の云ってる言葉さえ判らないのだ。
だから和臣、馨には、馨の頭の良さを充分把握するからこそ、「頭の悪い女とだけは絶対に結婚するな」と忠告して遣った。
男と比べるから少し鈍い雪子だが、普通に考えたら其処いらの女よりヒステリー起こさないだけ利口、世の中は雪子以上に酷い女で溢れて居る。自分達の組み合わせですらこうも苦労して居るのだから、あの天才が凡人以下の馬鹿を掴んだら…。
他人の、然も馨の事なのに、少し、優しい。頭の良い人間が、此れ以上馬鹿に虐げられるのを見たくない、が本心だが。
和臣が一番良いと思う組み合わせは、夫婦では無いが、以外と龍太郎と拓也だったりする。
拓也と馨の頭の回転の速さは等しい、けれど馨に出来ない事を拓也はする。相手の速度に合わす、と云う事。ちょいと利口な龍太郎と和臣の速度にも合わせられる、全く馬鹿な女にも合わせられる、かと思うと馨やハロルドと同等に会話を進行出来る。
気付いたのだが、大声を出さない、出す事を嫌う人間が頭が良い。宗一も同じに、大声は出さない。
馬鹿は決まって声がでかい。
気付いては居たが理由が判らず、此れを宗一に聞くと、「当たり前」と来た。
利発な人間の言葉は、何んなに小さくても短くてもきちんと耳に入る。然し、馬鹿な人間の言葉は、聞く理由も無ければ抑の意味も判らない、結果馬鹿な人間の言葉と存在は無視され、結果、何んな人間の耳にでも入る様でかく、自分を見て貰う為に延々と話す様為った。
と宗一は云った。
和臣は其れに酷く感心し、宗一の頭の良さに改めて感激した。矢張り親父の子、流石兄上、と思い乍ら、四六時中話す時恵に視線を遣った。然し如何でも良いが、時一の“兄さん”は腹立つなあ、と思った。何で俺に“上”を付けないんだ、父上母上兄上姉上なら“御兄様”の変換で“おにうえ”で良いじゃないか、と全く関係無い事を考えた。が、宗一が云うには此れこそ頭が良い証拠らしい。一度に幾つ物考えを持てる、と云う事。
そんな事を思い出し乍ら和臣は、暫く無言で雪子を見詰め、あの言葉にある答えを考えた。
「嗚呼、…嗚呼、そう云う事か。」
「そうなの。」
「はいはい、判った。簡単に云うとあれだろう?今の俺が不思議で堪らないんだろ。」
「そう、そうなの。」
自分ですら形容出来無かった気持を、すんなり形にした和臣に雪子は手を叩いた。
「頭の良い人と結婚して良かったわ。」
「…其の分、俺が凄い苦労をしてるんだけどな…」
「ねえ、何で?」
「そんなの俺だって判らんよ。俺、子供好きじゃ無いし。唯。」
一幸の髪は、兎の毛並みに似て居た。柔らかで居て暖かく、ずっと撫でて居たい。
「此奴は不思議だ、母さんの心理が良く判った。」
「御義母様?」
「母さんは、父さんの事大嫌いだろう。おかんが宗一を盲愛するのは理解出来てたんだ、おかんは父さんを何依りも愛してたから。父さんの子供だから、宗一は愛されてた。でも、何で母さんは逆、父さんが大嫌い。嫌いな男の子供を如何して可愛がるんだろって不思議だった。ずっと、子供が好きだからだろうって思ってたんだけど、やっと判った。」
何んなに憎い男の子でも、人生を目茶苦茶にした元凶でも、今迄感じた事が無かった。
「自分より大事な存在って事。自分を犠牲にしても、此奴には、笑顔を遣りたい。」
布団の上に一幸を寝かせ、薄く和臣は笑った。小さな顔に和臣の手は余った。
「ま、其れは建前だけどな。」
「え…?」
一幸から視線を離した和臣に、雪子は不安に肩を揺らした。
「いや、好い加減落ち着こうと思ってさ。今落ち着かないと、落ち着く時期を逃すと思って。なぁ、一幸。んふふ、一幸様々だ。」
此の笑顔が本心なのか建前なのか、賢い人間の頭の中等、雪子には判らなかった。


貴方の心は誰にも判らない。
本音しか云わなそうで居て、上辺だけの言葉も巧みに操る。
計算された言葉にすっかり騙される。
あの時貴方は「建前はね」そう云った。だけど其の建前こそが本音。一幸を愛して居たのは紛れも無い事情。
そして。
父親とは結局、子供に関心の無い生き物だとも教えて呉れた。
あの二人は確かに貴方の子なのに、貴方はあの二人の父親には成れなかった。成ろうともしなかった、其れが無駄な事だと、貴方の頭は計算した。
一幸が居れば良い。
其れは御義父様が、貴方しか認めて居なかったのと同じ心理ね。




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