味噌と頭痛と馬鹿娘


午前六時。目を覚まし、一度寝返りを打つ。今日は如何して起こす―――そうして思い出した寂しさ。
「嗚呼、そっか。居ねぇのか…」
琥珀の居ない朝。一人は慣れて居た筈なのに、又、人の温もりを知ると寂しい。深く息を吐き、布団を払う。ちらりと視線を流し、写真に笑った。
「御早う、姉さん。」
又、姉と二人に戻った生活。毎朝一番に挨拶をして居たのに、琥珀が来てからと云うもの疎かにして居た。今頃琥珀は、慣れた手付きで主人の飯を作り、三つ指折って居るのだなと、目を瞑った。
ゆらゆらと頭は回る。
「やばい…寝るわ…」
今迄散々な起こし方をされ、身体が其れに慣れて居た。今更無傷で起きれ様か。足をばたつかせ、必死に睡魔と戦う。
暴れた。だから気付かなかった。そっと現れた気配に。
暴れた振動で写真立てが揺れ落ち、其の角が旋毛に直撃した。
「っ……い…有難う…姉さん…」
悶絶。摩り、痛みを和らげた。涙浮かぶ井上に、新たな痛みが襲う。背中に伸し掛かった予期せぬ重みに、背骨と内蔵が悲鳴を上げた。
「う…そだろう…」
居る筈の無い人間の重み。知る、愛しい其の体重加減。
幻覚かと思い、井上は優しい其の顔を歪ませ睨んだ。
「何してんだ…御前…」
揺らぐ琥珀色の髪。昨日嫁いだ筈の娘に、顔が引き攣る。まさか、昨日の今日で離縁されたとは云わないだろう。然し、琥珀なら有り得そうだ。
俯き、井上の身体を揺さ振った。無理矢理海老反りを繰り返され、何かが逆流しそうになる。
「!Hey!聞いてよダディ、酷いのよっ」
御前が一番酷い、云いたいのに云えない。
「ねぇっ」
「I see…」
向き直り腹に乗せた琥珀の頬を、溜息を吐きつつ触った。
「如何した。」
優しい井上の声に益々俯き、呟いた。
「白味噌、何だよ…」
「うん?」
意味が判らない。井上の気もしらず、思い出した琥珀は怒りに任せ腹の上で暴れ始めた。
「止めて…内蔵出ちゃう…」
辛い振動に耐え乍ら、琥珀の話に耳を傾けるが、支離滅裂で何とも判らない。白味噌白味噌と繰り返し、何の恨みがあるのか。まさか、白味噌が理由で離縁された等失笑は誘わないだろう。
「うちに白味噌はねぇよ…」
井上家は代々赤味噌である。たまに赤出汁。だから白味噌等求められても、豆腐屋に走れとしか云えない。
「嗚呼、白味噌、此の野郎っ」
「俺は白味噌じゃねぇ…」
朝から何と血気盛んな娘であるか。
振り落とされる琥珀の手を腕で防御した。
「吸い物め…」
「今度は吸い物かよ…」
又思い出し、舌打ちをする。
「馨さんの舌には、赤味噌の様な濃い味は合わないのよ。白味噌若しくは御吸い物の様に、上品な味で無いと。」
「あ?」
何を云ってるんだ此奴、と普段の口調では無い姿に顔を顰める。
「下品で悪かったな、家は赤味噌なんだよっ」
枕を掴み、井上を叩く。最早抵抗する気も失せ、暫くしたら機嫌も直るだろうと井上は好きにさせた。
反面、頭も痛く為る。
姑の嫌味な小言位で初日からこうだと、先が思い遣られる。矢張り結婚等させるものでは無かったと後悔した。
琥珀の為では無い。自身の身の安全の為だ。小言を受ける度こう八つ当たりをされたら、胃痛持ちに為りそうだった。
唯でさえ、頭痛持ちだと云うのに。
「嗚呼糞…頭痛ぇ…」
頭一杯に痛みが広がる。其れに琥珀は慌て、腹から下りた。
「御免ね、御免ねダディ。あたしが叩いたりしたから…」
「良いから、薬。」
耳の後ろから脳天に掛けて痛みが襲う。其れを笑う様に来訪者を告げるベルが鳴り響く。こんな早朝に鳴らす奴等一人しか居ない。
「何だよ、琥珀の次は龍太かよっ」
大方迎えに来たのだろう。明日起きれるか判らないと云った昨日の自分を呪った。
「畜生が、そんなに俺が嫌いかっ」
しつこく鳴る音に飛び起き、髪を掻き毟った。貴重な毛が抜けそうだ。其れで無くともストレスで最近危ういと云うのに。
「ダディ?」
「嗚呼、悪い。出て呉れ。如何せ龍太だ。」
暢気に声は答え、井上はベッドから下りた。
揺れる度頭を殴られる。先に薬を飲めば良かった。
「判ってるよ、うるせぇなあ…」
洗面所に向かい乍ら悪吐く。グラスの割れる音。井上は更に溜息を吐いた。
「朝から仕事増やしてんじゃねぇよ、馬鹿娘。」
顔を洗う前に玄関に行く。そして腰が抜けた。座り込んだ井上の背中に琥珀がしがみ付いた。
ぱきりと硝子を踏む音。近付く姿に声が出ない。朝から此の顔は心臓、寧ろ精神的に悪い。
「御早う御座居ます、御義父さん。」
薄く笑う狐。狼だったら如何程良かったか。挨拶をしなければ。そう思うのに出た言葉は、
「家に白味噌はねぇ…」
だ。
何とも情けない話だが、腰が抜け、琥珀との会話しか思い出せない。其の威圧に一気に毛が抜け落ちそうである。
「何を訳の判らない事を。琥珀。」
威圧漂う声に二人は強請る。
「帰りますよ。母上も心配して居ります。」
「いやーっ」
叫ぶ琥珀。高い声は頭に尚悪い。
「あたしは赤味噌が好きなの、白味噌何てぼやけた味、嫌いっ」
其れ迄は絶対に帰らない、姑が何と云おうが、私は赤が良い。
断固として譲らない琥珀に、狐は無理矢理作った笑顔を向けた。
「明日から赤味噌にする様母上に申しますから。ワタクシは何方でも構わないので、ですから帰りましょう。」
膝を突き、井上越しに喧嘩をする二人。頭もだが、何だか胃迄痛く為って来た気もする。
「其れに、あたし貝嫌いなのっ」
「其れも申しますから。ね、琥珀。」
「馨さんが良くても御義母様が許して下さらないのっ」
きぃんきぃんとした喚き声に、酷く為る一方の頭痛。
切に助けを求めた。
だからだろうか、狐の後ろに狼は立って居た。二人を止める訳でも、井上を助ける訳でも無く、奇妙な組み合わせを眺めて居た。
「朝から忙しいな。拓也。」
湧いた声に加納は強張り、慌てて振り向いた。
「お…御早う御座居ます…」
「御早う御座居ます、加納元帥。」
無表情で眉間の皴は一層深く、張り付いて居る琥珀を振り払った井上は、本郷にしがみついた。
「助けてくれ!赤味噌と白味噌が俺を殺す!」
「ん?嗚呼、大体の話は聞いたよ。御前も苦労が絶えんな。味噌戦争だな。」
目下の隈を触り、蟀谷に触れるとびくびくと血管が悲鳴を上げていた。
「御前、薬飲んだか?」
首を振る井上。息を吐く龍太郎。其の吊り上がる目を琥珀に向け、睨んだ。
「夫婦喧嘩大いに結構。だがな、父親に薬位渡せ。」
思い出し、琥珀は息を飲んだ。
「御免、御免ねダディ。」
触れる琥珀の手を井上は払い除けた。流石の井上も、此の状況には腹立つ。
「煩い!此の親不幸者!勝手に味噌戦争でもしてろ!帰れ!朝っぱらから二人揃って下らねぇ事に巻き込みやがって!二度と帰って来るな!馬鹿娘!」
まくし立て、二人を玄関から追い出し、施錠した。ドアーを叩く琥珀。
「ダディ!ダディ御免為さい!」
「うるせぇ!加納の敷居を跨いだら其れに従え!判ったか!馬鹿娘!」
ズルズルと座り込み、息を吐いた。加納に無理矢理連れて帰らされているのだろう、琥珀の喚きが酷い。龍太郎の暖かい手が頬を撫でる。
「取り敢えず、薬飲め。な?」
狼の優しい目が、井上を微笑ませた。




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