Bon App*tit


「時恵って、美味しそうだよね。」
そう琥珀は雅に云った。雅は困惑する様子も無く、咥え煙草の侭暫く考えた。
「…云われてみたら、そうかも知れません。」
琥珀は、時恵が美味しそうだ、と云ったが、云った琥珀も美味しそうだと雅は思う。思うが口にはしなかった。何と無く。
琥珀は腕を捲り、ぺちぺちと叩いた。
「あたしも昔は細かったけど、生理が始まってから行き成り肉が付き始めた。」
嫌だ嫌だと歎く。
「けれど、とても色っぽいですよ。」
琥珀の手を掬い、甲に唇を落とした。雅の目にぞくりと快楽が走るのを琥珀は覚え、其の目から知る快楽が果たして、雅に対してか、似る馨を思ってかは判らない。ときときと静かに心臓は鳴り、強く結ばれた厚い唇は開き、知れず熱い息を漏らした。
「あらあら。御邪魔だったかすら。」
「…時恵様。」
現れた時恵に雅の目は其方に向き、嬉々明るい声と共に離された手。しん、と身体が冷えた。
「今日も御美しい限りで。」
「あら、嬉しい事を。加納様は口が御上手なのだから。」
満更でも無いと笑う時恵に、琥珀は唇を突き出し拗ねた。三つの思いが身体を渦巻く。
一つは時恵に。
何だかんだ云っても時恵は自分が可愛い事を認めている。謙遜を見せ乍らも当然だと云う顔をする。其れが琥珀には納得いかない。時一の様にはっきりと云えば問題は無いのだが、曖昧な態度は琥珀に気持悪さを教える。
一つは雅。
女と見れば誰彼構わず口を動かす。其れは別に構わないのだが、馨と同じ様な目で艶を流すのは頂けない。馨が色気とは全く無縁であるから尚更嫌だ。雅が女を口説く、其の姿はまるで、馨が他の女を口説いている様な気持を覚える。だから琥珀は時恵だろうが気に食わない。いや、時恵だから気に食わない。馨が時恵を崇愛(スウアイ)しているのは見えている。
一つは自分自身に。
自分だけ見て貰いたい陳腐な嫉妬。時恵や他の女に声は掛けて良いが、今さっき迄は自分だったのにと琥珀は思う。琥珀は寂しいのだ。常に自分に注目が集まっていないと見放された気分に陥る。性格と云う依りは、育った環境の所為での一種の強迫観念に近い。拗ねても得にならないと知りつつ拗ねる。其れに周りが困惑する。
案の定雅はそんな琥珀に気付き、困った顔で時恵を見た。
「琥珀も、可愛いわよ?」
「…うん。」
可愛いと云って貰いたいから拗ねている訳では無い。だからと云って、琥珀にも拗ねている理由が明確では無い為、如何答え様も無く、結局は意味も判らず拗ねる事しか出来なかった。
「処で、何の話をしてらして。」
時恵も冷たい女だ。其れは誰でも知っている。拗ねているならずっと拗ねていろと云わんばかりに時恵は話題を切替えた。琥珀は一瞬傷付いた様に眉を顰めたが、直ぐに笑った。
「あのねあのね。」
雅は煙草を消し、笑う。良く表情が変わるなと。
「時恵って美味しそうだよねって話。」
「…え?何?」
煙管に火を点けていた時恵は噎せ、気管が痛いのか珈琲を飲んだ。中途半端に火の点いた煙管を遠ざけ、一咳した。其の真白な腕。見た琥珀は掴むとまじまじと見た。
「やっぱり美味しそうだよ。」
テーブルに伸ばされる腕を雅も覗く。しかし首を傾げた。
美味しそうとは思う。思うが、其れは時恵の全体を指しただけで、腕とは固定して無い。
「一寸…一寸何?」
行き成り旨そうとは何だ、私は食料では無い、と引っ込めたいが琥珀の力は強かった。
「…何か、御餅みたい。」
むにゃむにゃと腕を揉む琥珀。煙管を持つ手に力が入り、顔が痙攣する。
「時恵様…?」
全く琥珀を見ずに煙管を咥え、かちかちと歯が当たる。誰が如何見ても怒っている。しかし時恵は表に出さず無言を決めている。
「御餅みたーい。」
未だ云うか、と時恵は琥珀を睨んだ。
「ね、加納さん。」
「…っえ!?」
驚きで鼻が鳴った。何と答えて良いか判らず、無言で自分を見る時恵の目に耳の奥が痒くなった。
云われて見れば餅みたいだ。真白で柔らかく、弾力が凄い。見れば見る程餅に見える。此の侭きな粉を付けて食ったらさぞかし旨いだろう。しかし其れを素直に云って良いのか迷う。
そうだ、と雅は軍服を脱ぎ、自分の腕を時恵の横に並べた。
日に焼けた褐色、筋肉質で筋浮く真逆の雅の腕。
「時恵様が羨ましい。」
「え?」
「御覧の通り私の腕は日に焼け、おまけに傷だらけです。」
「そう、あたしも其れを云いたかったの。」
と琥珀も腕を並べた。
「あたしは確かに白いし肉も付いてるけど、見て。御餅に見えないでしょう?」
きめ細かく水々しい時恵の肌、きめ荒い少し乾燥している琥珀の肌。金色の初毛が流れている。
「羨ましいの、時恵の肌。触ると吸い付くみたいで。あたし、ざらざらしてるし。」
琥珀は自分の腕を撫で、肌と肌を鳴らした。時恵も同じ様に腕を撫でてみたが音はしなかった。
「東洋人の肌って、卑怯だよね…」
其れは時恵にだけでは無い。雅にも馨にも拓也に対しても思う。手を付けたらピッタリとくっつく肌。時恵は日に当たらない為、一層其れが強い。
真白く、柔らかい。
「所謂、餅肌、って事かすら。」
「…餅肌。だから御餅に見えるのか。」
「私も時恵様の肌が羨ましい。知る女性の中で一番羨ましい肌と白さを御持ちですよ。」
其れなら満更悪い気持では無いと時恵は少し照れた。
其の話を暫く聞いていた龍太郎は声を掛ける頃合いを忘れた。
餅に見えるのは、白いだけじゃ無いだろう、と。
白いだけで餅に見えるなら、時恵依り白い雪子は見える筈だ。だが全くそうは見えない。
腕だけでは無い。胸も足も、餅に見える。全体が餅に見える。
詰まり、龍太郎が何を云いたいかと云うと。
「肌質の問題では無いだろう。」
聞こえた龍太郎の声に三人は驚き、時恵は頭を下げ、雅は慌てて軍服を着ると帽子を被り膝を屈した。
「気付かぬ御無礼を、本郷元帥。」
「構わないよ。」
「御帰り為さいませ、龍太郎様。」
「御帰り為さい。」
嗚呼、と龍太郎は云い、時恵と琥珀を交互に見た。そして気付いた事を云った。
「時恵は餅みたいで、琥珀は…チーズみたいだ。あるだろう、丸い白い、中が柔らかいチーズ。仏蘭西の。在れは何だったかな。」
「は…?」
「龍太郎様?」
独り言の様に呟く龍太郎に雅は気付いた。大股で龍太郎に近寄り、腕を引いた。声を殺し、耳元で云う。
「本郷元帥が何を仰りたいかは、良く判ります。」
理解する低い雅の声に龍太郎は鼻で笑い、少し身体を動かすと同じ様に耳元で云った。
「果たして二人は気付くだろうか。」
くつくつと笑う。
「気付か無いとは思いますが、決して仰っては…」
「判っている。俺だって命は惜しい。」
「龍太郎様?」
時恵の声に、何でも無い、と龍太郎は口を塞いだ。




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