七面倒臭い世界
「八雲君が居ないから、御覧為さい、ワタクシ四面楚歌です。」
久し振りに能面を見た。
御覧為さいと云われるが、周りは白い壁しか無い。
「わいがおったの本の二年位ですやん。其れ迄貴方、一人でしたでしょう。」
今更私が居ないからと云って困る男で無いのは充分承知して居る。
「八雲君。」
「あい。」
「戻り為さい。」
「嫌です。」
「ワタクシが頭を下げ、頼んで居るのですよ。」
「いや…、下げてませんやん…」
踏ん反り返り、伊万里焼のティカップでミルクティを飲んで居る。
「戻り為さい。」
「せやから、嫌て。」
「八雲君。」
「なんぼ云われてもやぁです。」
「給料、もう少し、上げます。」
辟易した。
「加納はん、あんな、そう遣って海軍贔屓して、内閣ぐちゃぐちゃにしたんやろ。此れ以上海軍贔屓してたら、ほんま内戦起きるよ?」
「未だ空母は出来てません、予算も無いのに。」
「もうだから…ッ」
此の能面は、致命的欠陥がある。本人が気付かないのなら心行く迄自爆させて遣ろう。
そう無言で頷き、早々に逃げた。私に政治は全く判らない、参議院と衆議院の違いも判らない男を抑政治に関わらせ様とした時点で、能面の脳味噌には欠陥がある。
海軍大臣、何ぞ大それた肩書を持って居たが、戦争も無い今、時に此れと云った仕事は無かった。各局の報告を纏め、振り分け、把握し、能面に報告する、大臣等基本そんなものだ。後は能面の雑用。
能面が痛手なのは、雑用が居なく為ったからだろう。
能面からの帰り道、久しい顔を見た。
「ヴォイディ館長。」
「堅苦しいね、八雲。マットで良いよ。」
ブロンドに溶ける夕日、琥珀色に見えた。
そう云えば此の二人は、在れから如何為ったのだろう。館長基マシュー氏が、能面の関与を一切拒絶したので判らない。大使館への入国を拒否したのだ、此れで能面が入ったと為れば、不法入国で訴えられるので見物ではあるが。
「今日は、在のレイディ・タイガーは居ないんだね。」
「白虎ですか?」
「そうそう、白虎。」
「家で休暇中です。」
「はは、ナイス。」
能面に扱き使われたのは、何も私だけでは無い。毎日の家から基地迄の往復を、白虎は強いられて居た。
マシュー氏は珍しく歩きだ。車が好きだと聞いて居たが、運転するのが好きなだけで、乗る事自体に興味は無いらしい。
並んで歩くと大差無い身長で、同じ目線で話せた。
「ねえ八雲。」
「はい?」
「君、自転車って乗れるかい?」
何を行き成り聞いて来るかと思えば。最近マシュー氏、自転車を買ったらしいのだが、乗れない事に、買った後気付いたらしい。此処にも脳に致命的欠陥を持つ人間が居た。
「何で、乗れんのに、買うたん…?」
「何でかな。いや本当、何で買ったんだろう。判らない。俺、如何かしてたのかも。」
如何かして居たの問題では無い。
「香苗が“自転車って凄いのね”って云ったからかな。ううん、多分其れだろうな。」
さらりと、空に雲が流れる様に然も当然に云ったが、私は驚きで足が止まった。
「香苗、夫人…?」
何故、能面の元女房が出て来るのか、其の辺の事情を知らない私は当然驚いた。能面が離婚したのは琥珀嬢の関係だとばかり思って居た。
「うん、香苗。…加納の奥さん。八雲、知らないの…?」
「知ってるわ、香苗夫人位。」
「だよね、吃驚した。」
驚いたのは私の方だ。
「ちゃうくて、何でマットの口から香苗夫人の名前が出るの…?」
致命的欠陥があるのは私では無いか。全く知らない事を、マシュー氏の口から聞いた。琥珀嬢と能面が不倫関係にあったのは知って居る、然し、香苗夫人とマシュー氏が不倫関係にあったのは初耳、序でに、香苗夫人は離婚した後、マシュー氏の愛人に為って居る。マシュー氏も流石に、母親が死んだ直後に新しい女を子供達に見せる訳にはいかないと思ったらしく、ひっそりと二人で会う。今は其の帰りと云う。
能面の傍に居る時も、腹に一物抱えた女だろうなと思って居たがまさか。
「西班牙に居る父親には相当非難されたけどね…」
「わいも今少し…」
「軽蔑しないで…、仕方無いじゃないか…、香苗を捨てる訳にはいかないんだ…。責任以て生活見なきゃ…。娘は気付いてる…。御蔭で最近、益々口聞いて呉れない…」
此れならもう逸そ、家に呼んだ方が良いのでは無いか。結果、マシュー氏の娘が不良に為ろうが私の知った事では無い。
私の周りは、何故こうも七面倒臭い輩が多いのか。自ら問題を起こすか飛び込むか、理解に苦しむ物好きばかり。私は極力関わらない様にして居る。
「で、自転車に乗りたいの?」
「いや、違う。乗れるならあげ様かなと思って。」
「白虎が居るんで、間に合ってます。」
「だよねぇ。」
能面もそうだが、マシュー氏も。
不倫をする男が、私には良く判らない。
私の場合は、妻が、と云う依り、其の後ろの、牙を手入れし待機して居る猛獣達を恐れて居る。尤も私は、不倫出来る程女に言い寄られはしないが。関わる女が、同性愛者か能面の令嬢しか居ない、何と寂しい人生。黙ってれば女は寄って来るだろうが、口を開いた途端阿呆に為るので無理だ。
其の点マシュー氏は、黙って居て良し話して良し、全く女に持てる為に生まれて来た男で羨ましい。
「何でそんな女に持てんの?」
「そうかい?」
「昔から持ててたやろ、ほら云え、云うてみぃッ、荒行云えやッ」
脇腹を人差し指で指して遣った。
「止めてッ、其処は冗談抜きに弱いんだ…ッ」
「何人や、何人とヤッた。云うた数だけ指す、いいや、刺す。」
「絶対云わないッ、言い終わる前に死ぬッ」
「あ?なんて?なんて?世の中には夏彦兄さんみたく一生童貞か、わいや弥勒兄さんみたく一生一人の女しか知らんで枯れるかしか無いのにやな、何ですか片や、君は。君達は。」
「其れは其れで、素晴らしい事じゃ…」
「素晴らしくないんですよ、此れが全く。」
男として生まれたからには、良い思いをしたいでは無いか。抑に私は結婚が早過ぎたのだから。此れから先遊べる見込みは無い。が、マシュー氏曰く、氏も結婚は十代で私と同じ。尚且、娘迄居た。此の差は何だろうか、矢張り生まれ持った性質か。
「伊太利亜人は凄いんだよ。」
「凄いて?女に対する執着が?」
「そう。」
聞いた通りで面白くも無い。映画で見た通りの男が、伊太利亜にはうじゃうじゃして居るのだろう。
「自分の横に子供が居ても、美人見たらウィンクと投げキッスする。子持ちでナンパするんだよ。」
「で?」
其れがマシュー氏と何の関係があるのか。
「俺は違うよ、って事。ナンパはしない。」
「やったら何で女に持てんの。」
「向こうが勝手に話し掛けて来るんだよ。」
何とも羨ましい話か。私が一人で居て、話し掛けて来る女子(オナゴ)と云えば、新手の宗教か、「貴方の倖せを願わせて下さい」か、高額商品の押し売りかの何れかだ。間に合ってます、の一言で終わる有り難いナンパだ。
「カフェーとかで?」
「いや、バーだね。八雲は酒飲むの?」
「いや…」
そうか、酒を嗜む男に女は群がるのか。いや然し、だったら何故、ワイングラス片手に西班牙語を母国語の様に話す夏彦兄さんが童貞なのか、此れは少し、本格的に其方を疑った方が良いのか。後ろは処女、とは聞いて居ない。
一幸もそうだ。在の暗い男も暇があればバーに居るそうだが、童貞だ。
いやいや然し、私が知る女に困らない男は、揃いも揃って酒豪。一幸とて、美麗に惚れ込んで居るだけで持てはする。酒を愛する男は、女に愛されるとでも云うのか。
だったら此れは致し方無い、私は一生持てない道を歩くしか無い。
「酒飲んだら持てんの?」
「持てるか如何かは判らないけど、口実には為るよね。バーに美女が居たら、一寸声掛けるか、何回か見た事あるなら一層掛け易いよね。」
「ほんで、如何なんの?」
「一時間位話してたら…、まあ君も大人だろう、濁させて頂くよ。」
申し訳無いが、私は其処迄大人では無い。三十半ばの良い案配の貴方と、二十其処いらの若造とを一緒にして貰っては困る。其の点に関しては童貞だ。
「何で其れで浮気出来んの?ねぇねぇねぇ。」
「知らないよ、気付いたらベッドに居るんだから。」
「夢遊病者か、あんた。」
「君の姿に夢心地、そう云えば?」
致命的欠陥。見付けて仕舞った。私が女に持てない理由。同時に夏彦兄さんも。
甘い言葉とは、何とも縁遠い私。考えただけで身震い起き、口に出せば全身泡立つ。
「良く…そんな…」
「加納だって云うんだから、八雲が云っても違和感無いと思うよ。」
能面が、在の能面が云ったと云うのか。薄ら寒い顔で薄ら寒い言葉を。
真冬と云う季節柄、寒過ぎて凍死しそうだ。
「なんて、云うたん…?」
「さあ、知らない。俺が知る訳無いでしょう。女房口説かれたんだから。大方、貴女の事を忘れた日は一日も無い、向日葵を見る度貴女を思い出した、貴女が好きだった事を目にする度、ワタクシの頭は貴女と云う記憶に支配された、とかだろう。」
在の薄っぺらい顔面からは想像出来ない熱情を見せたのだろう、正直、気持悪い。
能面には然程興味無いのか、話すのが嫌なのか、話は私に切り替わる。
「八雲も、ハンサムだから持てそうだけど。」
「いや、全然…」
「又々謙遜を。」
「ほんま…、謙遜ちゃうし…」
マシュー氏が云う様に持てるのなら、今頃私は独り身で恋愛たる物を謳歌して居る。此ればかりは謙遜無しに持てないのだから致し方無い。
「琥珀も云ってたよ?八雲って、凄くチャーミングで虐めたく為っちゃう。在れは女で苦労するタイプよ、マットと同じで無意識に女を引き寄せるタイプ、そして優しさで破滅するタイプ、って。」
有り難い話では無いか。在の大女優様にそんな事を云って頂けるとは。破滅、は聞き捨て為らないが。
「そう思ってんなら、一回位わいと寝て呉れたら良かったのに。」
「おっと、今のは空耳でオーケーかい?」
「はい、空耳でしょうね。」
空は、段々と群青に為る。影法師が地面に長く伸びる。彼女が最期に見たのも、こんな空だったのか。
「俺は、こっちだから。」
「はい。」
「楽しかったよ、有難う。」
頬に、キスをされた。
英吉利にそう云う習慣があるか私には判らない。恋人達のキスの時間で、電車が遅延するから、ホームでのキスを禁止されたのは知って居る。
氏の背中は、此れ迄育てた愛と、此れから育てるであろう愛が入り混ざって居た。
帰宅すれば彼女が残した愛が待つ。私には、其れが受け入れないと、氏が悲鳴を上げて居るみたく映った。
私に子供は居ない。仮に私が妻を残し死んだ時、子供が居たら、妻は愛して呉れるのだろうか。
一抹の下らない不安が、影法師と共に地面に形を成した。
世界を七面倒臭くさすのは――愛。そんな物無ければ世界はもっとすっきりする。代わりに、死ぬ程詰まらぬ世界に為る。
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