アメヲンナ


月が、隠れている。
まるで自分みたいだ、と井上は笑った。
静かな道に、灯りは少なく、申し訳程度に点いた街灯が、自分の影を映す。
足音の向かう先は、小さな洋館。井上が出入りを繰り返す、娼館である。
取り分け、美人が居る訳でも、気に入った女が居る訳でもないが、其の雰囲気が好きな井上は、出入りを繰り返している。
息を吐くと、白い。街灯に照らされた指が、雪の様に白く、青く写る。
ベルを鳴らすと、中で響き、外に聞こえる。
「あらまあ、旦那。久し方じゃないの。」
主の女が、ドアーを開け、井上を迎え入れる。
着物の裾を引き摺り、ランプを渡す。囀りの様な声だが、其の息は酒に侵されていた。
「相も変わらず、客が居ないな。」
「昨日はいらっしゃったのよ。」
会話を二言三言交わし、女は部屋に案内をした。
井上は、ベッドに座る女を見た。
「見ない奴だな。」
「先日入ってよ。器量は良いわ。きっと御気に召してよ。」
「何を。」
井上は鼻で笑い、ランプを置き、照らされた女に、井上は息を飲んだ。
「椿です。可愛がって下さいまし、旦那。其れに。」
女は井上に耳打ちをした。耳に熱い息が篭る。
「男を知りませんの。」
そう云うと女は静かにドアーを閉めた。
ベッドに伸びる癖のある髪、梔子の香り、紅い口、シルクのドレス。
井上は言葉を無くし、一歩下がった。
嫌な空気が流れる。
井上は唾を飲み込み、息を吐いた。
瓜二つ。
愛した女に、そっくりな此の女に、井上は躊躇いの色を隠せない。
動かぬ井上を女は一瞥し、静かに足を床に落とした。
「旦那。どうぞ、可愛がって下さいまし。」
伸びた細い腕。
瞬間井上は嫌悪が走り、其の腕を強く弾いた。
「わ、悪い。」
女は無言で、小さく笑った。
「私は、御嫌いですか。」
代わりを、と女がドアーに向かう。
「待て。」
女は静かに膝を折った。
「可愛がって、頂けて。」
抱けない。
此の女は抱けない。しかし、抱きたい。
目の前に居る女と、自分の気持ちが、葛藤を繰り返す。
「男を知らない体で、娼婦が勤まるのか。」
冷たい言葉に女は無言で項垂れた。
「私も、こんな事はしたくありません。けれど、女一人が生きてゆくには、こうする他、能が無いのです。」
女は続ける。
「正直、怖いです。怖くて怖くて、死にたくなります。私も女です。好きな方に抱いて頂ければ、そんな幸福御座いません。」
「ならば、今直ぐ辞める事だな。」
女の声が張りあがる。
「井上様。」
女は井上に縋り付き、涙を零した。
「貴方を存じ上げて居ります。一目会った其の日から、私は貴方に心奪われました。」
「何を云ってるんだ、俺は御前を知らない。」
錯乱状態で気違ったのかと、井上は思った。
瓜二つの女に会っているのなら、井上は忘れる筈が無かった。
「あの時。−覚えていらっしゃらないでしょう。」
「あの時。」
「あの、雨の日。其の時も貴方は、此処にいらっしゃいました。私は行く当ても無く、雨を凌ぐ為に、此処に居りました。館中の姉様達に囲まれて帰る貴方が、人目に付かない処に居た濡れ鼠の私を見て、こう仰ったのですよ。」
井上は、息を飲んだ。
確かに、随分前、雨の日来た時、一人の女に声を掛けた。
主から、女と見れば見境が無いのだから、と笑われた時があったのを思い出した。
「水も滴る良い女だな、そう、云って下さいました。」
井上にしてみれば、何とも無い言葉。なのに、この女は、其れを覚えていた。
「もう一度御会いしたくて、母様に頼んだのです。御客を付けれないのなら、小間使いでも良いと。貴方に、御会いしたくて。」
涙が、止まらない。
「私を女にして下さいませ。一夜、一夜だけで結構です。貴方の手で、女の喜びを教えて下さいませ。井上様。」
女の薄い唇が、厚さを増している。
「――俺は、そんな優しい男じゃない。」
云い終わるや否や、女の唇が井上の唇を塞いだ。
柔らかな舌に溶け込んだ、甘い味。
梔子の香りが、頭を埋める。
「―飴が、好きなのか。」
不思議な質問に女か首を傾げた。
「飴しか食べていないこんな細い体で、一体何が出来ると言う。」
「井上、様―。」
今度は井上自ら女の唇を塞いだ。
甘い息が漏れる。
「肉付き良い女が好みだが、今夜は其れも仕方が無い。」
「井上様。」
「存分に可愛がってやる。」
床に落ちたドレスから、梔子の香りが、漂った。




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