月夜のモスキート


月が、無い。あるのだけれど、雲に隠れて見えない。
そんな空を、唯見詰めていた。
規則正しい寝息を立てる君に、触れる事は出来ない。触れ様と思い、伸ばした手を、何度戻したか。
其の首に、自分の唇を重ねたい。
其れが叶わないのなら、小さな乾いた音を立てて、圧し折ってやりたい。
そんな狂った気持ちを今夜も秘め、家を出た。
「よう。ヴァンパイヤ。」
聞こえた声。
「バン、何だって。」
聞き慣れない言葉に顔を顰めたが、彼は笑うだけだった。
「最近御前は、良く夜中に抜けるなぁ。」
そうでもしなければ、自分は彼が云うモスキートンになってしまう。
「好きにさせろ。」
「止めはしないさ。」
彼は笑い窓から飛び降りると、ゆっくりと顔を上げた。
「どうだ。今夜は、モスキートン宜しく、徘徊でもするか。」
「宜しくしなくても、徘徊するぜ。」
笑い、小さな足音を立て、暗い道を歩く。月が、出てていれば何とも無い道だが、今夜は、二匹居るモスキートンに怯えて、其れも無い。本当に、暗かった。
「明かり持ってくりゃ良かった。」
「じゃあ俺は五寸釘と藁人形と木槌を。」
「丑の刻参りしに行ってる訳じゃねぇんだけど。」
こんな暗い中でのそんな会話に、楽しさを覚えるのは何故だろう。
「案外、居るかも知れんぞ。」
そう知って彼が指した神社。微かに変な音が聞こえる。かーんかーんと、いうなれば、木槌。
「見たら、呪われるぞ。」
「おお、其れは勘弁願う。」
遠くで音を聞き乍ら、足を進める。
何処に行こうというのだろう。行く当ても無い侭、足を進める。月さえ出ない道に、足を進める。
水の音。
「何だ。此処に来たのか。」
彼は云う。
「嗚呼。」
何処に行く訳でもなく、かといって此処にきたい訳でもなく、気が付くと、何時も此処に居る。今夜も。
「朝になると。」
毎日の様に見る景色を思い出す。
「水に光が反射して、本当に、綺麗なんだ。」
其れを見ると、汚れた気持ちも綺麗になりそうな気がするが、矢張り、夜になると、気持ちは汚れるのだった。
毎朝毎晩、同じ事を繰り返し、全く前に進めない。進めないのではない、進まないのだ。
半端な汚れた場所に、恐悦を感じている。
此の侭で云いと思う反面、此の侭で居ると、何時か声も無く干乾びる気がした。
触れたいのに触れたくない。
愛しいのに憎い。
陰と陽が、複雑に、其れでも縺れる事無く絡み合っている。
そんな気持ちに、自分は、唯立ち尽くしている。
「何で、こんなに苦しいんだろうな。」
胸元を掴み、笑った。
彼は紫煙を上げ、薄く笑っていた。
「諦めるな。」
彼の言葉に、涙が出た。
「諦めて、何になる。他人だったら、其れで良いが、どうなる事でもあるまい。毎日顔を合わせて、笑っていられる程、御前は器用ではないだろう。」
「どうしたら、良いんだろうな。」
「前に進もうとしないのは、御前の弱さだ。」
「知ってるよ。」
事実を云われ、反論出来る程、賢くは無い。此の川の様に、流れに身を任せているのが、一番楽で、一番苦しい事なのだ。
「俺が思うに。」
彼は煙草を消し、座った。
「姉さんは、御前が一番だと思う。家族としても、人間としても、男としても。」
「だから、どうしようもねぇんだろう。阿呆。」
「阿呆は御前だ。」
彼の目に、月の光が反射した様思えた。彼は何時でも、月に好かれているのだ。御覧、あんなに重たく淀んでいた空から、ぽっかりと月が覗いてる。
「男でも、一番なんだ。喜べ。」
彼の言葉に、光が差した。
月の光を反射する水は、彼女の様に、美しかった。
「全く俺は、損な役回りばかりだ。」
「どういう意味だ。」
「侭の意味だ。」
彼は腕を伸ばし、全身に月の光を浴びた。寝そべり、草の匂いを感じる。
「御前だけが、苦しんでると、思うなよ。」
「え。」
月光に照らされた彼の顔。其の顔に、見惚れた。
「人という物は、片方が思う事を、感じる生き物らしいな。俺には、未だ判らんが。」
「俺は、御前が云ってる事が判らんよ。」
「頭良いのか、悪いのか。」
深く息を吐き、手に触った草を毟り、風に乗せた彼。草の匂いが、鼻を突く。
「安心しろ。」
彼の鋭い目。
「御前の思いは、壊れやしない。」
其処で、彼の云っていた事が、漸く判った。
「変な期待はさせるな。」
「期待か。事実だ。」
「事実か、そうか。」
体を起こし、反射する光を見る。こんなに綺麗で、どうしようというのか。
真実は、何時も、月だけが見ていた。




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