家に帰ったら、知らない男が居た。しっかりとした顎を持ち、其の顔からは力強さを彷彿させ、自分の周りには居ないタイプの顔付きの男だった。背は低く、ずんぐりむっくりといった様な、けれど嫌な印象は与えない男。男は俺を見るとそっと笑い、何処かに向かって声を掛けた。
「大事な弟君が帰って見えたよ。」
「もう、何処行ってたのよ。」
男が声を向けた所から、一番愛しい女が姿を現した。
「龍太郎ちゃんの所にも居ないし、一体何処に行ってたの。」
子供を叱る様な口調で問われ、何も答えなかった。何処に行っていたのかと聞かれても、別に何処かに行っていた訳ではない。唯、散歩をしていただけ。其れを何故そんなに責めるのか、俺には其の時理解出来なかった。
今朝姉さんが云っていた言葉を、俺は完全に忘れていた。
俺は気付いていなかった。姉さんの言葉を聞いて、散歩に出掛けた事を。聞かされた言葉に無意識に散歩に出た。そうして、はたと何故自分がこんな所に居るのか理解出来ず、帰って来ただけ。
「姉さん、此の方は?」
聞いた俺に姉さんは呆れた顔を向けた。
「やだ、今朝云った事聞いてなかったの?」
「今朝…」
何だっただろうか。忘れる程嫌な事であるのは確か。
男は卓に乗っている湯飲みを口に付け、静かに云った。其れが何だか嘘らしく思え、俺は無言で又家を出た。
きっと呆れているに違いない。
宙を浮いた感覚で龍太郎の家に入った。勝手口から。門の方が、俺の家の門と近い筈なのに、態々回り勝手口から入った。其れ程不可解な行動を、何故自分でしたのか。
音だ。
竹刀の音が、聞こえたから。だから、道場に近い勝手口から入った。
「もっと腰を入れろ。」
其の声に俺はやっと現実に戻る。道場の入口に寄り掛かり、笑って声を掛けた。
「よう、龍太。」
「…拓也?」
竹刀を持っていた龍太郎は、親父さんの顔を少し見、頭を下げ竹刀で肩を叩きながら近付いた。
「御前、何処行ってたんだ。」
「散歩だよ。」
「一言云って家を出ろ。姉さん心配してたぞ。」
龍太郎の細い顎から、汗が落ちる。先程見た男とは全く正反対の顎。龍太郎の顎から汗が落ちた様に、俺の顎からもまた水気が落ちた。汗でないのは判っている。
「おい、拓也…」
酷い話だと思わないか。
こんなにも好きなのに、好きで堪らないのに、其の女は。
「姉さん、結婚するんだって…」
俺を捨てて、他の男と一緒になるそうだ。
ずっと一緒に居た俺を、あっさりと捨てて、他の男と宜しく暮らす。其の現実に、俺は耐えれない。ずっと傍に居てくれると思っていたのに、傍に居る男は自分だと思っていたのに。
こんな酷い話は、聞いた事が無い。
「良かったじゃないか。何泣いてるんだ。」
龍太郎の其の言葉に、矛盾を感じた。
良かったとは、一体何を以って云うのか。ちっとも良くない。
龍太郎は笑い、親父さんを見た。
「矢張り姉さんは結婚為さるそうです。」
「あの男か…」
親父さんは溜息を点き、龍太郎から竹刀を受け取った。
「議員だろう、あの男。碌な奴じゃない。」
嗚呼、そうだ。そうに決まっている。俺から姉さんを奪う奴は、碌な奴じゃない。
「父さん、其れは偏見ですよ。議員の中にも良い人は居ます。」
「一度も御目に掛かった事が無いのは、拓也君の父親も然り、何故だろうな。会いたくも無いがな。」
「父さんは本当に、政府の人間が嫌いなんですから。いい加減忘れたら如何です。息子ながら其のしつこさは呆れます。其れに拓也の父親は官僚です。」
「此れは、幕末からの恨みだ。はっはっは。官僚諸共滅せよ明治政府。」
龍太郎は一層呆れ、二人だけにしてくれと頼んだ。
生憎俺に父親の記憶は曖昧にしかないので、親父さんが父親を悪く云っても何とも感じなかった。
親父さんが居なくなり、龍太郎は床に座り、俺に座る様云った。
「姉さんが結婚するのは、嫌か。」
当たり前だ。姉さんの傍に居る男は、今迄も此れからも、俺一人なんだ。そうでないと、俺は嫌なんだ。
「御前もさ、十四だろう?いい加減、姉さん離れしたら如何だ。何時迄子供で居る気だ。」
姉さんがずっと俺の傍に居てくれるなら、俺はずっと子供の侭で良い。大人になるから、姉さんは俺から離れ様とするのだろうか。
「現実を見ろ、拓也。御前がそうやって駄々を捏ねても、来年には軍に入るんだ。姉さんは結婚する。」
十六歳の龍太郎の言葉は、酷く俺の心に突き刺さった。たった二年しか違わない此の年の差が、途轍もなく大きく感じる。学生の自分と、軍に入って二年目の龍太郎との差は、途轍もなく大きい。
「抑何故、姉が結婚するだけで泣く。恋人が行く訳でもあるまいに。泣きたいのは俺の方だ。」
其の言葉に俺は笑った。自分でも驚く程、綺麗に笑った気がする。
「龍太さぁ…」
「ん?」
「近親相姦、って知ってるか…?」
「キンシン、ソウカン…?」
知らないのか龍太郎は顔を顰める。其れが面白くて、俺は声を出して笑った。笑い、俺は龍太郎に顔を近付けた。
「俺が今犯そうとしている罪だよ。」
「罪…?」
「神が決して許さない…此の世で一番罪深い行為。血族間での、通姦。」
吊り上った細い目が、大きく見開く。
「俺は、一度も、姉さんを、姉さんと、思った事は、無い…」
一人の女として、ずっと見てきた。
其の思いが、あの男の所為で壊れる等、神が許しても、俺は決して許さない。壊した時は、殺してやる。
「姉さんの傍に居る男は、俺以外、認めない…」
姉さんは、俺の物なんだ。




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