男と娼婦


「横、良いかしら…?」
短い髪は洒落た紺色の帽子に隠れ、膝迄の同色のワンピースを着て居た。首から下がる三本のネックレス。一つは真珠で矢鱈長く二重巻きにされ、一つは何かの宝石ではあろうが男には判らず、一つはワンピースの衿元で揺れて居た。此れも宝石なのだろうが、生憎男に知識は無かった。
赤い口元を緩めた女は、グラスを口元に置いた侭一瞥しただけの無言の男に頷き、数回ヒールを鳴らすと承諾も得ず隣に座った。
カウンターに置かれた手。白い手袋には指輪が一つ嵌まって居た。
男以外、客は居なかった。女は何処からともなく湧いて出た。男は別段奇妙に思わず、グラスを空にした。
男は兎に角、一人で居たかった。
女と云う生き物に、極力関わりたく無いとさえ感じる。亡くした恋人を嫌でも思い出して仕舞のだ。
新しく作ろうと下げられたグラス、男は矢張り無言で、金をカウンターに置いた。女はそんな男に視線を流し、一度合った。
「合格かしら?私。」
意味の理解出来ない言葉に男は眉を寄せ、一度離れた身体を女に向けた。
「何が?」
「素敵な声。」
「何?あんた。気持悪いんだけど。」
下げたグラスを洗って居た主人は其の手を止めた。二人の会話を、聞こうと低俗で野蛮な考えを持ったのだ。
良く良く見ると、女は美貌であった。然しだから如何したと云わんばかりに、男は首を捻って女から顔を逸らした。其の素っ気無さが、女には新鮮であった。男と云う生き物は、常にぎらぎらと自分を見る物だと捉えて居ただけに、男の態度は実に新鮮であった。
「私、安くは決して無いけど、見合う女ではあるわよ?」
酒を流し乍ら上目で男を見据え、女の目は槍の様な視線を逸らしはし無かった。安い云々、男は生まれて初めて、“娼婦”と云う生き物を見た。想像して居た娼婦は、もっと破壊的で自堕落、此の女みたく、決して奇麗な生き物では無かった。此れでは淑女では無いか、男はそう思った。
「昼は淑女なのか?」
今が娼婦であるなら。
女は男の言葉に目を丸くさせ、持って居たグラスをカウンターに置いた。
「さあ、貴方は如何思う?」
尤も私には、時間等存在しないけれど、そう云う。男が一日を始める朝も、部下にやる気無いと云われ仕事をして居る昼も、こうしてのんびりと酒を飲む夜も、女には同一。
「私はずっと娼婦よ。貴方が、望めばね…?」
望まなければ擦れ違う女と変わり無い、挑発的な其の目に男は虚無感を知り、鼻で笑った。
「女には、関わりたく無いんだ…」
無気力に床を見た侭云う男に、女は眉を上げ、最初に声を掛けた時と同じ様に、ヒールを数回鳴らした。
「何か、あったの…?」
挑発的に見て居た筈だと、男は、今では全く違う目で自分を見る女の目を見た。優しく、けれど物寂しい視線で、手袋の質感を頬に教えて呉れた。当然男は恋人を思い出し、女の目を見て居るのに別の物の見た侭恋人の名を呼んだ。
其の名だけは二度と口にすまいと口を閉ざし、寡黙と呼ばれる様に為った。
絶望感を宿す男の目に女は全て悟ったのか、何も云わず唇を重ねた。
「私が居るわ。」
触れた唇から、男は何かを感じ取った。数秒前迄頭を埋め尽くして居た恋人の姿が、一瞬で消えた。目の前に居るのは女だと、はっきりと認識出来た。
夜が段々と闇を濃くさせる自然の摂理の様に、あんなにも濃く存在して居た恋人は、何処にも居なかった。
ゆっくりと自然に、男の口角は吊り上がった。
――何だ、こんな事だったのか……。
一人で居るから思い出す、そんな暇を自分に与えて居るのが間違いなのだと男は知り、彼女を考えず済む安直な術に笑いが漏れた。
「そうか、そう云う事かよ…」
夜が、闇が近付き、一面を覆う。其れが全く当然の様に恋人は、一人ベッドで息をする男に重なった。女が云った「私に時間は関係無い」が、漸く理解出来た。
「幾らだ。」
「そう来ないと、ね、旦那…」
ならば根本を覆す。
夜であるのなら、夜に居なければ良い話。時間の観念を壊す。
昼であろが夜であろうが、恋人を感じさせないのであれば男は良かった。
「相場が判んねぇんだわ。」
此れで足りるかと、持ち合わせて居た金全てを渡した。女は別驚きも見せず、確かに、そう視線を流した。
「可愛がって頂けて?」
「嗚呼、世間が云う、朝迄な。」
カウベルを聞いた後に見た世界は、一面漆黒で、なのに虚無感は見当たらない。此の漆黒の楽園で、男は名前を無くした。
井上拓也と云う人間を、殺した。




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