rain or pain


姉は、雨が嫌いと云う。雨等鬱陶しい、貯水池の上にだけ降ってろと我が儘を云う。何でも、服が濡れるのが嫌だとか。傘を差しても濡れるとは此れ如何に。姉は、余程差し方が下手糞に思われる。
俺もまあ、何方かと云うと、すっかと澄み渡る青空の方が好ましい。でも此れは例外、雷。
此れだけは幼少時代から大好きである。
雨にも色々種類あるが、俺が一番好きなのは、真夜中の豪雨。此れ程興奮する雨は無い。日中であると憂鬱に為るが、夜中だと何故こうも興奮するのか。不思議で堪らない。
姉は特に雷が嫌いで、遠くからの、聞こえるのか判らない程小さな音でも肩を強張らせる。真上で轟いたと為ると其の怯えは異常で、枕の下に頭を突っ込む。ひしと枕を掴み、雷と一緒に(此れは音が聞こえない為だが)「あー」と声を出す。
まさかこんな年にも為って“雷様”たる物を信じて居る訳ではあるまい。だから俺は「電気じゃないか」と云うが姉は「電気だから怖いんだろうが」と半泣きで云う。
「落ちて来たら感電死するのよっ。未だ雷様の方が可愛いわよっ。電気よっ、何万ボルトあると思うの、其れが空からとか、普通に怖いわよっ」
「でも、奇麗だよ。」
「奇麗、はっ、奇麗。目の前に落ちたの見て云い為さいよっ」
姉を此処迄恐怖に叩き落とすのにはきちんと訳がある。
子供だと嫌いな理由は、普段では絶対に聞かない大きさの音を出すから。空が光るから。
姉が嫌う理由は、目の前に落ちて来たから。然も、人の上に。
どん、と云う爆音に身体が止まり、空から真っ逆さまに一本走った稲妻。其の強烈な光。
「人よっ、濛々と煙が立つ其の中から焦げて、皮膚が爛れた、どす黒い塊よっ。身体からは白い煙がふわふわ浮いてるし、目なんか、目なんか…。髪は真白よっ」
地面は揺れ、姉にも少し、電気が来たと云う。下半身は電気に包まれ、立って居られ無かった。そして見た物。強烈な焦げ臭さ。泥の上に吐いた。
「雷様が来たのかと思ったわよっ」
「臍隠した?」
「隠したわよっ。そしたら何よ、中年親父の死体じゃないっ」
雷の威力、雷様が来たと云う恐怖、生々しい死体。其れを目の当たりにした姉が雷嫌いに為るのは、無理も無い話だった。
「水死体も気持悪いけど、在れも凄かったな。」
余談だが姉、良く死体を見る。此の時迄断トツで水死体が見たく無い死体であったのに、此の死体が一位に為ったらしい。そんなに死体に出会す姉も如何かと思うが(死体に引き寄せられて居るのだと思う)。腐乱死体に会えば、多分、同じ事を云う。腐乱死体こそ最も見たく無い死体である、俺は。
そんなで姉、一時間前から、段々と近付いて来る雷に怯えて居る。直ぐ其処迄来て居る。雨はバケツをひっくり返した様な量で、門の下は五センチ程水に浸かって居た。門から家は緩やかな坂に為って居るので玄関から水が入る事は無いだろうが、御陰で門が浸かって居た。二階から本郷家の庭を見ると、見事に水が張り、軽い池みたく為って居る。
部屋から龍太の部屋に、雨音に負けない程叫ぶと、タオルを大量に持った龍太が血相変えて窓から現れた。
「何?如何したの。」
「此の雨、異常だぞっ。如何にか…」
バリバリバリ、空を裂く様に雷が走った。俺達でも少し驚いたのだから姉は何十倍も。一階から悲鳴、続けて勢い良く階段を上る音がした。此れが雷の音に良く似て居た。
「馬鹿拓也っ、一人にしないでよっ。臍よ、臍っ」
臍臍とは此れ如何に。姉は雷様であった。
「御出で御出で。」
血の気引かし泣き乍ら恨み言吐く姉を抱き寄せ、龍太の話を聞いた。其の間ずっと、互いの部屋に雨は入る。
「異常だ、此の雨量っ」
「如何したの。」
「土間が浸水したんだっ、釜戸には水が入るし、父さんが空腹何だっ。床下、ぎりぎりだぞっ」
本郷家、かなり危機的状況である。
釜戸に水が入るとは水位が高い。親父さんが空腹なのも危機的である(親父さんは空腹だと以上に癇癪を起こす)。
此の雨は昼過ぎから降り始めた。夜の門下生が居たのは幸いだが、此奴等は帰宅出来ない為、親父さんに使われて居る。床上浸水に為るのは時間の問題、家中の畳、特に一番大事な道場の畳を門下生全員で二階に運んで居る。畳は浸水したら最後、全て入れ変え無ければ為らない。其れには膨大な時間と金が掛かるのだ。
「拓也の家が羨ましいよ、此の時ばかりはな。」
本郷家は当然だが日本建築で、床下がある。昔は良く、下に入って遊んだ。井上家は西洋建築、土台は全て埋まってある。床上浸水等、玄関から水が入って来ない限り無い。然も門に向かって緩やかな傾斜。水は全て道に流れる。雨に対してかなり対策がしてある。父親は余程、雨の降る場所に居たのかも知れない。
俺達を嗤う様に雨音は強まり、最悪の事態に為った。信じられない程の音、電信柱に雷が落ちた。電気の通る場所に電気が落ちる、其れは暗闇を一瞬真白にする程強力だった。
どん、と空が鳴り、ばん。電信柱が爆発した。
放心状態で雨だけを見て居た。
龍太の家から門下生の「足元が見えない」と喚きが聞こえ、続けて悲鳴が聞こえた。
「誰かが滑り落ちたな。」
龍太は呆れ、一旦部屋から出た。案の定、御袋さんが照らす蝋燭の下に黒い塊があったと云う。序でに畳も。
「大変だな。そっち行こうか?」
「来て欲しいが、十センチは溜まってるぞ。」
「だな…」
水位は又上がって居た。
「其れより。」
龍太は窓を閉め、蝋燭を付けると指先で硝子を叩いた。
微かな光の中では、其の顔付きをはっきり、美しい物として映し出した。
「そっちも大変だろう。」
蝋燭の淡い光の中で動く口を見、濃紺のカーテンは閉まった。
電信柱に雷が落ちた事で“雷様襲来”を色濃く思い出した姉は、息をするのが漸くな程震え上がって居た。抱いた腕は痙攣した様に跳ね、激しい雨音に聞き取れないが血色無くした唇は動いて居た。
「蝋燭持って来るから、一寸待っててね。」
姉は両手を握り締め、ぶつぶつ動く唇に合わせる。一体なんなのよ、は辛うじて聞こえた。
肩から手を離した時雷が鳴り、飛び散らん程見開く顔を見た、普段は矢鱈黒目を主張する目は白目が大半だった。額にはうっすら脂汗を滲ませ、青白く、雷の光を受けた姉の顔は、とんでもない形相だった。怖さに喉が詰まった程だった。
「何処、行くのよ…?え?」
恐怖と緊張は、姉に怒りさえ教えて居た。
「蝋燭をね?」
「冗談じゃないわっ」
痛い程背中を掴まれ、又雷。此れ以上姉の凄まじい形相は見たく無いのに、見て仕舞った。俺が恐怖に震えた。
「離して…怖い…」
「嫌よ、嫌っ。絶対に嫌っ。其れでも弟っ?怯える姉に対して“怖い”?非道っ」
「違う…暗いのが、怖いって…」
全くの嘘であるが、こうでも云わないと、俺に恐怖を与える姉から逃れられ無い。其れでも姉は、鬼の形相で離れない。
「嫌よ、嫌…。一人にしないでよ…」
離してよ、そして、俺を逃して―――。
顔が怖いから離して欲しい、と云うのもあった。だって考えても御覧、惚れた女が額に脂汗滲ませ、血走った見開いた目を向ける等、とんだ怪談だ。何処の妖怪だ。普段の美しさを知る分一層。
でも、離して欲しい本当の理由は、暗さでも雷でも無い、姉への雷。電光石火の思い。
ゆっくり離れて、そう、良い子だね。雷より怖い存在に為るなんて、堪えられる訳が無い。
俺が雷を好きな理由、姉に対する思いに酷似して居るから。伝えれば、同様に恐怖を与える事に為る。
思いは床上浸水、どっぷり浸かってる。
黒い雲からは大量の、涙。轟々と風は吹き荒れ、雷を蓄える。どんと一鳴り、俺も出来たら楽なのに。
此の異常な豪雨、一体何時晴れるんだろう―――。




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