ランプが消える其の時迄


貴方に初めて御会いしたのは、在れは何時だったかしら。貴方も私も良くは覚えて居なくて、秋だったか春だったか…嗚呼そう、秋でした。初めて会った貴方は私に芒を呉れたんだわ。そうそう秋。家に帰ったら御月見をするって、そうそう、貴方仰有ってらした。下すって?と聞いたら「あんたの髪、奇麗だから」って。私すっかり舞い上がって、ランプに火を点けるのを忘れたんだわ。私の変わりに貴方が点けて、暫くは其れを眺めてた。
「あんた、奇麗だな。」
「そうですか?」
「久し振りに見たわ、こんな良い女。」
「口が御上手なのね。」
其れで、腕に擦り寄った。貴方は頭を撫でて呉れて、とっても気持良かったのを覚えて居る。
其の侭頬に手が来て、親指で撫でて、互いにはにかんだ顔を寄せた。唇が重なるだけのキッスを一つ、離すと貴方は逸らした口元を手で隠し、身体を少し離した。
「うっわ…、緊張して来た…。何だ此れ…」
「井上様たる方が。」
貴方はね、赤線の中では一寸ばかり有名でしてよ。勿論、此の館にも何回か足を運んで居るのも知ってよ。私は、手前味噌で恐縮だけど、秒単位で働いてる。
噂には聞いてましたの。娼婦が取り合う男だって。興味はありましたのよ、でもね中々、私が回らないんですの。
「だって、緊張するだろ…。こんな良い女、…え?」
本物?と迄貴方聞いて来て、だから私、思わず笑って仕舞ったんです。
「なあ、一寸聞いて良いか?」
「何為りと。」
「御前、最初の客、木島だった?」
「木島様?」
「陸軍元帥の木島。」
私すっかり昔の事で忘れてましたの。私が此の仕事を始めたのはもう五六年も前で、其れから今日迄、随分な男が此の身体を通りました。確かに、云われて思い出しました、木島様でした。云うと貴方は項垂れて、やっぱりそうかって、何だか少し寂しそうで、丸まる背中に頭を付けた。
「良い女って思った奴、全部木島だ…」
「そうでして。」
「木島が手ぇ付けてない良い女って何処に居るんだよ…?彼奴在れか?処女が入ったら連絡入れろとか云ってんの…?」
「え?私、処女じゃありませんでしたよ?」
此の仕事を始めたのは良くある話で、碌で無し亭主の借金を返す為でした。借金は無く為りましたが、今更そんな亭主の所に帰る気毛頭無く、今日に至ります。
「…マジかよ…。じゃあ何?本物じゃん…」
此の“本物”は“本当に良い女”と云う意味らしく、珍しく思いました。客は大抵奇麗だ何だと云いますが、貴方程仰有った方、私は知りません。
「御前も馬鹿だな、俺と結婚すりゃ良かったのに。」
「そうですね。」
「あっら、素っ気無い。」
「家の人、此処で借金拵えたんですよ。」
亭主は良く云って居ました。思い出しただけでも腸煮え繰り返る、一生忘れやしませんよ。
御前は奇麗なだけ、愛嬌も無いわ、床も最悪。何で結婚したんだろう。奇麗なだけなら娼婦が良いわ。
此れでも亭主、昔は純粋な文学青年でした。物書きに為れるんじゃないかしらって程、熱烈な手紙を毎日呉れましたのよ。私は其れに絆され、悪く云えば騙されたんですわね、亭主の本性何て見えて無かったんです。
「だから、井上様とは嫌。」
「はっきり云うな。」
貴方がどんな方かは私知りません。素敵な時間を下さるのだけ知ってる。
ランプが消える迄の其の時間、其れだけで充分じゃありませんか。
もう一つ知って居る事。
貴方、そんなに他人に興味持ってらっしゃら無いでしょう。私には良く判るんです。其の時だけ貴方はランプの柔らかい明るさみたく微笑む、だけど其れ以外ではてんで無視。良く良く遊びを判ってらっしゃる方。だから私も、ランプを灯す。
心にじんわりと、貴方への興味を灯す。
又いらして下さいね、私は何時でも、ランプを付けますわ。




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