雛人形への恋 弐


一生娼館に入り浸る気は勿論無い。時期が来ればあっさり辞める積もりだった、けれど其れが何時なのか、明日なのか何十年後なのか―――其の日はあっさりと来た。驚く程あっさりと目の前に来た。
桔梗館に入った時、“母様”が俺の顔を見る為り暗い顔をした。何も云って居ないのに「そう…」と頬に触れ、がっくり項垂れた。
「有難うね、旦那。今迄…」
母様は、良く人を見て居る。此処に来るのが最後だと、知ったらしかった。
「誰が、良いかしら…」
何時もなら覇気のある声、今は此の館みたく暗く、沈んで居る。
「……まぁ、野暮ね…。雛子よね。」
決めて居た、最後は在の子だと。
何年通った?家より長く居る場所を、俺はしみじみ見取り、二階の奥に向かった。
其処は雛子の部屋。俺が何年も掛けて育て、大金落とした女。此処での部屋持ちは、雛子を入れて三人、雛子は三番手だ。一番手も偶に相手するが、なんせ一番、そうそう御目に掛かれる物じゃない。二番手は、一度付いたが、全く興味そそられない女だったので、もう顔も忘れて仕舞った。無駄にプライドの高い女だったのは記憶にある。
其れで三番手の雛子。基本、別に此方は何の指示も大金も出して無いが、客は俺だけ。雛子本人が本人で嗚呼だから、普通の客は受け付けないと云うのも理由であるし、雛子本人が頑なに俺以外は嫌だと主張したのもある。
娼婦に人権は無い―――良く云われる事だし、店側もそう思ってる。娼婦の意見等普通は聞かない、けれど雛子は“人間”として既に別格の存在だから、母様は従うしか無い。なんせ人間で無いのだから。一度嫌だと言い出したら、殴られ様が焼き入れられ様が頷かない。客に迄手を出す始末だから従うしか無い。雛子一人の無作法で客を逃す訳にはいかないのだ、母様も。
「雛子ぉ。」
ドアーを開けると、在の地下室とは全く正反対の部屋がある。何処のマリーアントワネットだよ、と突っ込みたく為る程の趣味だ。元から雛子はこうした“姫様趣味”だったらしい。ふわっふわのフリルやレースが彼方此方にある部屋、色も白や桃、水色と、比較的明るい。
部屋の中心にある天蓋ベッド、寝転んで居た雛子は枕と一緒に起き上がった。
「だぁんなぁ。」
相変わらず舌足らずな口調で破顔し、枕を床に捨てると抱き着いて来た。
「旦那、旦那ぁ。」
「へいへい。」
雛子は本当、小さい。可愛いと思えば其れで良いのだが、小さい理由が理由なだけに納得出来ず居る。
身長だけで見れば一桁の子供だが、実際は二十歳超えて居る。俺と雛子が出会ったのはもう五年以上前で、其の時確か、十五か六だと云って居た。
雛子は、全く成長しない。
そう、人形みたく。
“雛子”と名付けたのが悪かったんだろうか。
美麗より小さな頭をぐりぐりすると、雛子は笑う。
笑うんだ。
在れから比べたら、少しは人間に近付いたかも知れない。相変わらずぶっ壊れては居るが。
小さな身体を掬い上げ、昔の琥珀を抱っこして居る気分に為った。脇腹で足をぶらぶらさせ、きゃーきゃー、と訳判らぬ奇声を発する。
ベッド―――では無く刺繍が見事なソファに下ろすと、雛子は首を傾げ、きょとんとした。膝から下ろし、雛子がする訳無いので、棚から酒を取り出した。
「旦那、旦那ぁ。」
棚に肘を乗せた侭動かない俺に雛子は寄り、帯に触れた。
膝を付かず、丁度胴の辺りに雛子の頭がある。俺の身長が一七五センチだから、此れで相当小さいのが御判りだろう。一三0前後…。
「雛子。」
帯を解こうとする手を止め、酒を一口飲んだ。
「あのな。」
「うん。」
「俺、今日で最後何だわ。」
理解して居ないのだろう、矢張り首を傾げた。
「今度は何処行くの?」
胸が抉れそうだった。
違うんだ、違うんだ雛子。
俺はもう二度と、御前に会えないんだ。
「違う…」
「何処何処?雛子も行きたぁい。」
英吉利に行って、中国に行って……雛子は又其れだと捉えて居る。
云ったら如何為る?此の女は。
相変わらずぽかんとし、へらへら笑って、二度と会えない俺を待つのか。或いは…。
「俺、結婚するんだ…。だから…」
すとん。
本当に、すとんと、言葉の途中で雛子は床に座り込んだ。そうして一番最初と同じに、俺を見上げた。
在の、人形の目で。
ふんわりとスカートが盛り上がり、雛子の表情と一致して居ないが、不思議と違和感は無い。ちぐはぐさこそ、雛子の世界なのだ。
「雛子。」
「え…?」
少女みたいな声の雛子、だけど此の時ばかりは、成人女性の声をして居た。低く、落ち着いた声。
「え………?」
「だから…」
「いや。聞きたくない。」
女、まさに女だった。轟々と怒りが目の奥に現れ、こんな雛子は正直初めてだった。
ぽかんとするか泣くかの何方かと思って居たから、其の何方でも無い雛子の態度に足が冷えた。
「嘘、だよね…?」
其れはまるで、付き合ってる男が実は既婚者で、自分は愛人にしか過ぎなかったと突き付けられた女みたいだった。
「来週、する…」
来る?と渾身の冗談噛ましたら、瞬間平手打ちが飛んで来た。余りの速さ、一瞬で、叩かれた事さえ真実か疑わしいが、確かに顎が痛い。爪が引っ掛かった。
「雛子、落ち着け。」
「嘘だよね?嘘って云ってよ…ッ」
どんどんと身体を叩かれ、手に持つグラスからどんどん酒が零れ落ちる。
「旦那ぁ…嘘だよぉ…」
又、今度はずるずると座り込み、足に縋り付いた。
「だから、今日が、最後。」
其処で雛子は泣き声を上げた。外に突き抜ける程大きな声で、悲しみを爆発させた。
「え、一寸何…?如何したの…?」
尋常で無い雛子の泣き声に何事かと、母様は当然、暇な女達も覗きに来た。呆然と、雛子では無く床を見下ろす俺、其の足元でわんわん泣く雛子、誰が見ても異様だった。
「雛子、雛子如何したの…」
母様には、理由が判って居る。だから態々覗きに来たのだ。
女達は普通に「在の旦那が何したの?」と好奇心だ。
宥める母様に、不安そうな顔でドアーから覗く女達。
「見せもんじゃねぇんだけど。」
持って居たグラスをドアーに向かって投げ付けると、一瞬引っ込んだが、又ちろりと覗いた。
「雛子、雛子大丈夫よ。ね、大丈夫。」
「ああん、ああん。」
泣くばかりの雛子、母様は理由を知るから宥めるに徹底するが、理由が判らない女達は理由を早く云え、と目が訴えて居た。
「旦那がぁ、旦那がぁ…ッ」
そうだ、早く、其の先だ、と無数の目が光る。
「ああんッ」
駄目だわ、と一人減った。抑雛子に期待したあたしが馬鹿だったわ、と背中から匂わせ。
「旦那、何したの…?」
堪らずの一人に聞かれた。だから素直に結婚すると云ったら、雛子は更に泣き声を大きくするわ、聞いて来た女はぶっ倒れるわ、一人は「誰だ畜生、泥棒猫」とヒステリー起こし、どすどす関取みたく足音立て、消えた。後の二人は「へぇ」だの「おめでとう」だの当然の反応で、床に伸びた女を引き摺り、姿を消した。
すると廊下から「井上の旦那、結婚するんだってぇ」と広間に向かい叫ばれた声がした。
拡声器みたいな女である。
如何云って良いか判らず、新しくグラスを取ろうとした時。
「雛子、又、捨てられちゃうよぅ…」
ぐずぐずと鼻を鳴らす、其の中から小さく聞こえ、俺は氷結した。
俺は、馬鹿なのか…?
いいや、自問自答する迄も無い、誠の大馬鹿野郎だ。
俺は…俺は…
捨てられる恐怖を何依り知って居るのに、其れを雛子にするのか…?
又、雛子に在の恐怖を教え様とするのか…?
「雛子…雛子…」
グラスに向かわせて居た手を雛子に向け、触れると、在の時みたく激突された。母様は一つ溜息を吐き、ドアーを閉めた。
天井に、天使が居る。
其れが余りにも滑稽で、同時に、残酷でもあった。
「雛子…」
「やだ、やだよぅ、旦那ぁ…」
「雛子…」
濡れる睫毛に触れ、其の侭唇を重ねた。
泣き笑う雛子の後ろで、天使が無表情で飛んで居る。こんな状況でも事を遣れる俺を嗤う様に。
「御免、御免な、雛子…」
何故、謝ったのか、無意識に口から出た。
「俺、御前に会えて、良かった。」
雛子、雛子…、俺のひゐな…。
「大好きよ、旦那…」
静かに胸に横たわる雛子のいじらしさ、純粋さに、下唇を噛んだ。
「ベッド行きたいんだけど…、背中痛い。」
「あ、御免。」
すんなり雛子はベッドに横たわり、俺を受け入れた。
「雛子。」
「何?」
「今更だけど、俺の名前知ってる?」
眉間に寄って居た快楽の皺は一度消え、又深く刻まれた。
「え、知らねぇの?」
「一寸待ってね、思い出すから。」
名前も知らないで良くもまあ、あんなに泣けるものだ、呆れ通り越し敬服すらする。
「ええとね。」
「もう良いや…」
そうは云うが俺だって、雛子の名前は知らない。
「単純だな、俺達って。」
名前何か知らなくとも、ちゃっかりナニ出来て仕舞うから不思議だ。
「あ、思い出した。」
「嘘だぁ…」
雛子は知る筈無いんだ、だって俺は一度も名乗った事無い。“井上の旦那”、此れは母様達が云うから覚えたに過ぎない。此れが偽名だったら如何する積もりなのだろう。
「拓也さん。」
どくんと、心臓が鳴った。腰が痺れ始め、其処から全身に痺れが広がった。指先はぞくぞくする程で、シーツに触れているのも痛かった。
「あれ、違う…?」
無言で、痺れの快楽と遊ぶ俺に、雛子は眉を落とした。
「雛子…」
「何?」
「動いて良い…?」
「うふふ、良いよぉ。」
短い腕、小さな手、小さな足、全部が愛しかった。
いやほら、雅さんは、全部が大きくてらっしゃるから。手足は物凄く長い。
其れで絡み付かれるのも又堪らないものだが、余す所無く全身で絡み付いて来る雛子も可愛いのは事実。
「ねぇ旦那ぁ。」
「んー?」
「雛子ねぇ、欲しいのがあるのぉ。」
「何?洋服?其れ位なら買う暇あるぜ。明日其の侭行く?」
「ううん、今で大丈夫。」
「何?金か?」
「旦那の子供、欲しい。」
こう云われ、動き続ける男は、果たして何人位居るのか。
案の定俺は固まり、暫く考え、喘ぎと共に息を抜かす其の小さな鼻を摘んだ。
「生意気だよ、馬鹿。」
「御願ぁい、雛子、大事にするよぉ?」
「はいはい。」
適当に流した。だって雛子は雅と同じで、いや、同じにしたら雅さんに大変失礼だが、粗悪な掻爬を繰り返した為、使い物に為らないと聞いた。
だから、だろうか。
「中に出して欲しいなら、出すけど。正直面倒臭いんだよ、出る瞬間抜くの。」
「本当?出して出して。雛子、がっつり受け止めちゃうよぉ?」
此の子は何処迄もぶっ壊れて居る。若干、引いた。
「よぉし、元気な男産めよ。長男だ長男。」
「任せて、さあ来ぉい。」
空元気、身体張った冗談は雛子に通じない事良く判った。本気で相手にするのも馬鹿らしく、けれど其の御馬鹿加減さえ可愛いから如何する事も出来無い。
ぎちぎちと、段々と、俺の限界が近付くに連れ、絡み付く手足に力が込められた。
「雛子…?雛子、痛い…」
「駄目。離さない。」
「足。足、緩めろ。」
「嫌…」
狂気を孕んだ女の目が、目の前にあった。正妻に負けじとする愛人の様な目…。
「雛子、マジで…、駄目だって…。足…離……」
「愛してるよ、拓也。」
背中に電流が走った。じんわりとした生暖かさに項垂れ、小さな手が頬を流れた。
「最悪…雛子…」
「長男、期待しててね…?」
狂気に濡れて居た目は元に戻り、うふふうふふと何時もみたく笑う雛子。
「旦那ぁ、大好きよ。」
「もう知らねぇよ…」
へらへら笑う雛子の頭を握り潰す勢いで抱え、其の侭寝た。そうして変な夢を見た。
俺そっくりな“女の子”がゆらゆら立って居た。見覚えのある振袖、帯……俺が確かに雛子に買って与えた代物。誰?と聞くと、雛子そっくりな笑顔だけ向け、帯を揺らして消えた。
全身は嫌な汗に塗れ、時計を見ると軈て五時に為ろうとして居た。カーテンの奥に見える空は、うっすら白味掛かり、夢の続きの様にふわりとカーテンを揺らした。
横に雛子が居ない。変わりに母様が、ソファに座り、優雅に珈琲を飲んで居た。
「何…?何で居るの…?」
靄が掛かる頭で聞いた。
かちゃん。
静かな音だった。
空が、明るく為るのと同じに俺の頭もはっきりした。
「雛子は、倖せだったかしら。」
「…さあ。」
慰み物として生まれ、生きた雛人形。“雛子”の前は何と呼ばれて居たのか、雛子にも、確かに両親は存在して、母親は何んな気持で雛子を抱き上げ、そうして捨てたんだろうか。
―――旦那、大好きよ―――
鼓膜にこびり付いた声が反響する。
「奇麗よ、雛子。有難うね、旦那。」
聞くのは野暮だった。箪笥を開けると案の定、在の一式が無い。ごっそり一段、空っぽだった。草履と仕舞う馬鹿が居るかよ、と云う会話を思い出す。
開いたドアー。煙と一緒に視線を流すと、龍太郎が立って居た。
「遺体は、基地の霊安室にある。」
其れが全てだった。
此の娼館は、陸軍管轄。
「拓也。」
「ん?」
「……在の娼婦…雛子、だったか。本名が判った。」
「流石。仕事が早いねぇ、龍太郎様。」
渇いた笑いしか出ない。今更知った所で、雛子は雛子以外、無い。
「井上。」
「何だよ、行き成り。」
「違う。」
龍太郎の目は、朝日みたく奇麗だった。
「井上雛子。其れが在の女の、本名だ。」
何かの冗談、或いは、雛子への弔いの意で俺の名字をくっつけ“本名”としたのかと思った。其れ程嘘臭い名前だった。
「俺だってまさかと思ったさ。けれど間違い無く在の女は、井上雛子と云う名で、三歳の頃攫われてる。」
後は想像に任せる、と龍太郎はソファに座った。入れ代わり母様が腰を上げ、珈琲を差し出した。序でに俺にも。
勝手に付けた名前が“雛子”だった、一番最初「雛子」と呼んだ時の顔を思い出した。
――御前、雛人形知ってんの?
――奇麗ね。
捨てられた訳じゃ無かったんだ。
そう思うと安心した。きちんと雛人形迄買い与えられる程愛されて居た。遠い記憶を頭の何処かに残し、又“雛子”と呼ばれ、表に出される日を待って居た。
買って遣ろう。琥珀には買って遣らなかった雛人形を、美麗に買って遣ろう。
何故か俺は、そう思った。
「又な、雛子。」
部屋を出る時、雛子の声が聞こえた。
大好きよ、旦那。そして、―――又な。




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