錯誤する愛情


昔に遡った気分だった。
畳に絨毯が敷かれ、天井から電灯は吊るされているのに部屋を照らすのは行灯。
一体全く、今は昭和だろう?
一体全く、何で俺が遊んで居た時代をして居る。
そう、畳に丸く光を落とす行灯を眺め乍ら思った。
「旦那。」
「何で俺を呼んだ?」
遊びは止めた、結婚した時。遊ぶ理由も無くなったし、何より、最後の娼婦(女)との最後が何とも後味悪い。其れを思い出したく無いのかも知れない。
俺は雅に心底惚れた、もっと随分前の相手には心中さえ考えた、そして最後の娼婦も愛して居た。
極端な話、雛子と結婚さえしても良いと思った。けれど雅と天秤掛けた時、雅に傾いた。不思議な話で、雅と雛子なら断然雅で、一方で雅と姉を掛けたら姉で、なのに、姉と雛子を天秤に掛けたら、何故だか雛子に傾く。
今でも鼓膜と脳味噌に張り付く雛子の声。俺の子供が欲しいとの一言が、俺を苦しめる。
「特に、用は無いよ。」
「なら帰るぜ。」
一体何キロあろうか知りたくなる程の鬘を被る顔近寄せ、ちょこんと紅が差された口を微かに動かす。
「年季明ける前に一度見たかったんだよ。」
其の口元をはっきり見る為少し顔を引き、口元から目元に視線を流した。
「へぇ、物好き。」
目元の赤い化粧が瞼に隠れ、黒い目がしっかりと俺を捉えた。
「旦那は、好き者…」
一度の瞬きで見えた赤い化粧。
「何年前の話してんだよ、もう廃業してるわ。」
雅と結婚してから、俺は一切の遊びを止めた。当然に。
当然周りは驚く、当然龍太は驚かない。雅ですら不審に思い、当然龍太に理由を聞いた。当然龍太は「あれが、拓也の本性だ」と教えた。
「噂通り。」
「廃業してるって。」
「一途だね、旦那。」
悪名だけは自負する、やれ娼婦を泣かした、やれ娼婦共が取り合いの流血沙汰を起こした、やれ娼婦を自殺に追い込んだ……悪名と悪癖だけは木島に負けないが、“一途”とは初めて聞いた言葉で、元遊び人からしてみれば、“汚名”の他無い。
一途な遊び人が何処に居るってんだ。…英吉利には居そうだけれども…
「御前、誰かと間違えてんじゃねぇの?」
凄い遊び人の井上さんと。
堪らず聞くと、矢張り俺だと、其の重そうな頭を左右に振った。
「俺が一途?記憶にねぇな。」
「好きな女しか、見えない、相手に、しない。」
其れが一途で無くて何を一途って云うんだいと、女は勝ち誇った様に首を反らし、通る鼻梁を少し曲げた。
「面倒が嫌いなだけだよ…、一途じゃねぇ。」
じっとりとした咎める様な女の視線に笑いが漏れ、濁り酒で乾く口内を潤した。
「桔梗館。」
桜が散る様なテンポで吐かれ、ざぁっと俺の背中は逆立った。風に吹かれる夜桜を連想したのは、女の打掛が濃紺に桜の花弁を散らした其れだったから。
泳ぐ目を隠す様に小さな盃を空にし、底に描かれる桜模様を酒で隠した。
「はは…、懐かしい名前だぜ…」
「あたしね旦那、今、二十三なの。」
「…何時年季明けんだよ…」
そんなの如何でも良いと女は肘起きに腕を乗せ、何重にも重なる着物の下で足を流した。
「桔梗館に、小さな女の子が居たの覚えてるでしょう。」
「ん?」
俺の記憶は曖昧だった。
桔梗館に居た小さな女の子?
一体何の事なのか判らず、思い出した所でだから如何したと云う。
「旦那って、ホント一途…」
「何が云いてぇの?」
女はにんまり口角を上げ、雛子、そう云った。
「雛子姉ちゃんが旦那の相手になる迄は誰でも良かったのに、雛子姉ちゃんが相手になった途端雛子姉ちゃん。そして律儀にまぁ、結婚報告。以降さっぱりよ。一途よね…?」
「思い出した、御前、雛子の世話してた女だろ。」
「…正確。」
はっきりと思い出した。
雛子は、自分の世話を出来る女では無かった。食事も身支度も一人で出来ない、当然、下も。
一度雛子がおしっこ漏れると云った事があり、便所なら向こうだぜ、と云った瞬間其の場に漏らした事がある。
――何で漏らした?御前は犬か…?
――判んない。
――判んないって…まぁ良いか。
此れが雛子だと納得した。変えてやろうにも下着が見付からず、けれどまぁ雛子が云うに「要らないじゃん」の場面、始末させ様と人を呼んだら、雛子と変わらない位の背丈の少女が来た。そして床に広がる雛子の粗相に一言「雛子姉ちゃん大丈夫よ」と云った。床を拭き、雛子の下半身を拭き、少女はじっと俺を見ると無言で部屋を出た。
「旦那に相手されなかった時の雛子姉ちゃん、怖かったんだからぁ。」
雛子に似た舌足らずの声に記憶がぶっつり途切れ、現実に向かって、え?と聞いた。咥えた侭の煙草に火を点けるか考え、結局離した。
雛子が怖い?
色んな意味で怖い女だったかも知れないが、女は明らかに折檻を匂わせ、然し雛子が他人に危害を加える程の思考を持ってるとは思えない。
「雛子姉ちゃんね、凄いショックを心に受けるとマトモに為るんだ。」

――雛子ねぇ、旦那の子供、欲しいんだぁ――

強烈な痛みが蟀谷から後頭部目掛け貫き、目の奥が燃えた。
「頭、痛い?」
女は楽しそうに口元を歪ませ、屈した俺の上半身をそっと包み込んだ。そうして俺を抱えた侭横たわり、目元を押さえる俺の手を重たい布の中に忍ばせた。
篭る熱、指先に触れた太腿の…雛子の嫉妬。
「痛かったなぁ、でもあたし、我慢したんだよぉ。」
左右内腿に広がる不快感。刃物で付けられたであろう感触が指先を愛撫した。
「な…」
「何で?」
生憎顔は打掛に隠されたので見えない、なのにはっきりと女が何んな顔をして居るのか判った。
「雛子…」
そう、見る迄も無い。
「ほらやっぱり、旦那って一途だよ。」
舌足らずの甘い声。
「雛子の事、覚えてて呉れたもん。」
掌に滑る雛子の嫉妬、指先に広がる雛子の愛情。中指がすっかり雛子の愛情に満たされた時、俺は頭を上げた。
「雛子…」
「旦那はね、雛子以外、愛しちゃ駄目だよ。」
「………嗚呼…」
「大好きよ、旦那…」
御免な、雅…。
あの時雛子に向けた謝罪を、雅に向けた。




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