
夜に射した色(2/30)

夜は静かだった。
紙をめくる音だけが、小さく部屋に響いている。
彩艶は灯りの下で、分厚い鉱石図鑑を膝に乗せていた。
『ラブラドライト――見る角度によって青や緑に光を変える』
指先で挿絵をなぞる。
灰色の石なのに、光を受けると別の色が浮かぶ。
不思議だった。
「……綺麗」
ぽつりと零した声は、誰に聞かせるでもない。
彩艶は昔から、こういうものが好きだった。
花の色。
空の色。
水面の反射。
同じものでも、見る場所や光で違って見えること。
その“変化”を見るのが好きだった。
ページをめくる。
その瞬間。
「――――っ!!」
遠くから悲鳴が響いた。
彩艶の手が止まる。
静かな夜には不自然すぎる声だった。
次いで、何かが倒れる音。
物が壊れる音。
どたどたと走る足音。
「……?」
胸の奥がざわつく。
嫌な感じがする。
彩艶はゆっくり顔を上げた。
廊下の向こうが、暗い。
でも。
そこに、“何か”がいた。
「……何、あれ」
最初は理解できなかった。
人の形をしている。
けれど、人じゃない。
異様に長い腕。
濁った目。
裂けた口。
そして。
――血。
鬼は、倒れている何かに喰らいついていた。
ぐちゃり、と嫌な音が響く。
そこでようやく、脳が現実に追いつく。
「っ……」
息が止まる。
怖い。
でも、それ以上に。
理解できない。
なんで。
何が起きてる。
鬼がゆっくり顔を上げた。
血だらけの口。
濁った目。
そして、彩艶を見る。
――見られた。
その瞬間だった。
胸の奥が、ざわりと粟立つ。
嫌だ。
見られたくない。
来ないで。
その感情に引っ張られるように、鬼の視線がほんの一瞬だけ揺れた。
彩艶の後ろ。
倒れた棚。
散らばった紙。
鬼の目が、そちらへ逸れる。
「……え」
自分でも分からない。
でも。
今しかない。
彩艶は反射的に手元の鉱石図鑑を掴んだ。
重い。
分厚い。
腕が震える。
それでも、鬼がこちらを向き直る前に。
「――っ!!」
振り抜くように投げた。
図鑑が縦に回転する。
空気を裂く音。
次の瞬間。
ゴッ!!
鈍い音が響いた。
図鑑の角が、鬼の目元へまともに叩き込まれる。
鬼が怯んだ。
「ギァァァッ!!」
彩艶の呼吸が乱れる。
当たった。
そんなことを思う暇もなく。
ふわり、と。
視界に桃色が舞い込んだ。
「大丈夫ですか?」
甘い声。
でも次の瞬間には、鋭い斬撃が鬼の首を断ち切っていた。
血飛沫。
崩れ落ちる鬼。
静寂。
彩艶はただ呆然と、その背中を見ていた。
長い髪。
しなやかな剣筋。
そして、人間とは思えない強さ。
ゆっくりと振り返った少女は、柔らかく微笑んだ。
甘露寺蜜璃。
それが、彼女との出会いだった。
「怪我はありませんか?」
彩艶は答えられない。
呼吸の仕方すら分からない。
そんな彩艶を見ていた蜜璃の視線が、ふと床へ落ちる。
そこには、転がった鉱石図鑑。
表紙の角に血が付いていた。
蜜璃が少し目を細める。
「……今の投げ方、咄嗟でやったの?」
「……え」
彩艶は顔を上げる。
「横じゃなくて、ちゃんと角が当たるように投げてた」
蜜璃は静かに続けた。
「しかも、目を狙ってたでしょう?」
言われて初めて、自分が何をしたのかを考える。
でも。
「……分からない」
声が掠れる。
「でも……そこが一番、嫌がる気がして……」
蜜璃の目が、ほんの少し驚いたように揺れた。
けれどその直後。
彩艶の視線が、ゆっくり横へ動く。
そこに倒れていた。
見慣れた服。
見慣れた手。
さっきまで、そこにいた人達。
「…………」
足が動く。
近づく。
触れた手が、冷たい。
血の匂いがする。
さっきまで普通だった部屋が、もう違う場所みたいだった。
彩艶は、何も言えなかった。
悲しいのかも分からない。
ただ。
“居ない”ことだけが分かる。
呼吸が浅い。
耳鳴りがする。
視界の端で、図鑑のページが血で濡れていた。
その色だけが、妙にはっきり見えた。
後ろで蜜璃は何も言わない。
ただ静かに、そこにいた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
やがて彩艶は、小さく声を零した。
「……あれ、また来るの?」
蜜璃は少しだけ表情を引き締める。
「ええ」
静かな声。
「夜になれば、どこにでも現れる可能性はあるわ」
その言葉で、世界が変わった気がした。
また起きる。
また自分が、誰かがこうなる。
彩艶の指先が、小さく震える。
蜜璃はそんな彩艶を見つめ、ゆっくり手を差し出した。
「……鬼殺隊に来ない?」
その声は優しかった。
でも同時に、現実だった。
「あなたには才能があるわ」
才能。
そんなもの、分からない。
でも。
このまま何もできないままなのは、嫌だった。
守れなかったことが、苦しかった。
彩艶はゆっくり顔を上げる。
蜜璃の手を見る。
その手は、強くて、温かそうだった。
少し迷って。
震える指を伸ばす。
そして。
ぎゅっと、その手を掴んだ。
蜜璃がふわりと笑う。
「大丈夫。一緒に頑張りましょう」
その言葉に、彩艶は小さく頷いた。
夜風が吹く。
冷たいはずなのに。
繋がれた手だけが、少し温かかった。
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月下彩譚