花の名前を冠する呪い
授業の合間の休み時間、友達と昨日見たテレビの話なんかをしていると、ぴこんっと机の上に置いた携帯がなった。
通知画面を見れば、メール受信の文字と差出人名が表示される。
「松野から?」
「あーうん」
5限終わりのこの時間に送られてくる千冬からのメールは見る気になれない。内容なんて分かりきっているから。
「見なくていいの?返信しないと怒られない?」
数人集まっていた友人のうち、彼氏からの独占欲を首に湛えた子が声をかけてくる。彼女に悪気はないことなんて分かりきっているが、それだけ愛されている子には分からないよなぁなんて卑屈になる。
手に取り横のボタンを押せばパカッと開く携帯。新着メールを開けば思っていた通りの内容だった。
『今日一緒に帰れねーわ』
ごめんの文字も無くなったそれに、短く『わかった』とだけ返信をした。彼の『ごめん』が無くなる頃に、私からの『なんで?』も無くなった。
千冬と付き合って5ヶ月。最初の2ヶ月は何も問題がなかった。毎日一緒に帰って、たまに寄り道をして食べ歩きなんかをして、休日には私に用事があったり、千冬の抗争やら集会がない限りはなるべく一緒に過ごした。
ふたりの関係がおかしくなったのは3ヶ月を過ぎた頃だった。千冬から一緒に帰れなくなったと連絡が入ったり、ひどい時でデートのリスケなども言われるようになった。理由はいつも同じ。
「幼馴染と一緒に帰ることになった」
幼馴染に呼び出されて、幼馴染と……私はお前のなんなんだと聞きたくなるほどに幼馴染との予定が優先だった。
一度だけ堪忍袋の尾が切れて千冬に私との時間を大切にしてほしいとお願いした。
「お前とは付き合ってるんだからいつでも一緒にいられるだろ」
と言われてしまった。一緒にいられていないから言っているのだが、その時の私は千冬に言われたことが衝撃すぎてただ黙ってしまった。毎日一緒に過ごしすぎて私も依存してしまっているのかもしれないと、喉元で引っ掛かっている言葉をオブラートに包んで飲み込んだ。
「松野なんて?」
「あー…なんか一緒に帰れなくなったって」
「また?あれでしょ?幼稚園の頃から松野のことが好きっていう幼馴染」
そう。例の幼馴染が幼い頃から千冬のことが好きだというのは有名すぎる話だ。それが私の不安を助長させる原因となっていた。
そんなこと、当人である千冬は微塵も知らないようだが。
もう別れてしまおうか。そんなことを考える自分に、存外堪え性がなかったんだなと他人事のように思う。それと同時に別れたくないと思うのだから相当松野千冬のことが好きらしい。本当に、嫌になるほどに。
放課後みんなが部活だバイトだと各々鞄を持つ。
「ばいばい!」
また明日の意味が込められたそれに応じて手を振ると、友人たちも手を振って教室を出ていく。
今日は千冬からの連絡はなかった。多分、一緒に帰れるんだろう。彼の中で私の優先順位が幼馴染より下で、幼馴染と帰ることの方が日常になって私に連絡を入れるということを放棄していなければ、だが。
そんな虚しい考えがじゅわじゅわと音を立てて心臓を蝕んでいく。
「馬鹿らしい。やめたやめた」
「なにをだよ」
突然頭上から降ってきた声に驚き顔をあげれば、きょとんとこちらを見ている千冬。いつからそこにいたのか。
「帰んねえの?」
「帰る……」
驚きのまま、机の横にかけていたスクバを手に取り立ち上がる。
私が立ち上がったことに納得したのか、千冬は教室のドアに向かって歩き出した。その背中を見て、やっぱり好きだなと思った自分に存外"千冬馬鹿"になってしまったもんだと感心。
そういえば私にはかっこよさが分からなかったリーゼントも千冬の頭にあればそれも好きだったと思い出し、少しだけ悔しい気持ちになった。
私はきっと千冬が思ってるより松野千冬のことが好きだ。
肌寒くなってきた秋の道を、革靴とスニーカーが踏む音がする。少し高さの違うそれは、妙にテンポだけは同じで殆ど重なり合うように鳴る。その事実が甘く心臓を刺した。
「ねぇ千冬」
「ん?」
「すきだよ」
そう言えば顔を真っ赤にする千冬はもうそこにはいなかった。
「……くだんねぇこと言うなよ」
私の好きはくだらないのか。
ごめんと短く謝れば、ぷいと顔を逸らされた。
何となく気まずいまま二本の腕がふたりの間でぷらぷらとすれ違いながら揺れる。分かれ道まで来ると、千冬が手を上げて「また明日な」と言う。
「うん、ばいばい」
私もそれに手を振り返せば千冬は家の方角に向かって歩き出し、振り返ることはなかった。
ねぇ千冬、きみの幼馴染は「千冬はいつも家の前まで送ってくれるの!」そう言って語尾にハートが見えるほどに教室ではしゃいでいたよ。
ところで私は君のなんだったんだっけ?
仄暗い空気が肺の底に溜まった気がした。
私にとって松野千冬という男は、どうしようもなく愛おしい恋人だということに最近気づいた。だからこそ幼馴染との関係性に嫌気が差しているのだが。
いい加減友達に言うのも憚られてきて、千冬と付き合って半年経った今、殆ど千冬に関することは話さなくなった。毎度毎度幼馴染が原因であると分かった瞬間に哀れんだ目を向けられるのが酷く惨めでならなかった。
もうすぐまたテスト期間に入る。それが終われば今度は待ちに待った冬休みが始まるんだ。なんとかそれだけを心の支えにしてきた。
「クリスマス、一緒に過ごせるのかな…」
ひとりぽつんと残っている放課後の教室。今日は千冬からの連絡がなかったから待っていたのだが、一向に来る気配がない。
もしかしたら連絡するのを忘れて幼馴染と帰ってしまったのかもなぁ、なんてきっと他の子は考えないであろう可能性を頭に浮かべてそっと席を立った。
このまま待っていても仕方がないので、『もう帰っちゃった?連絡ないから帰るよ?』とだけメールを送って廊下を昇降口に向かって歩く。
普段自習室として解放されている空き教室から聞き慣れた声がしてくることに気づいた。昇降口に行くにはそこを通るしかないのでどんどんと声が近くなる。この声は例の幼馴染だ。可愛らしい女の子を体現したかのような声。聞きたくないのに嫌でも聞こえてきてしまうのは、それだけ彼女を意識してしまっているということなのだろう。
「もうすぐだと思うんだよねぇ!」
耳がはっきりと掴んだ彼女の発した音は、いつになく弾んでいた。何がもうすぐだと言うのだろうか。
聞きたくないのに歩調がゆっくりになる。教室の手前でその足は完全に止まってしまった。
「やっと別れてくれそうなの!だけどまだっぽくて……何がダメなんだと思う?」
「んー…もっと徹底的にナマエとの時間を奪うのは?松野鈍いから気づかなさそう」
嫌な汗が背を伝った。呼吸がうまくできない。つま先を一点に見つめていた筈の視点は定まらなくなっていて、頭の奥がくらくらする。
彼女の言葉に衝撃を受けたのも事実だが、それに関しては予想の範疇なので問題なかった。それよりも、彼女と一緒にいる子の方が問題だ。
いつも千冬の相談に乗っていてくれたあの子がどうして。
あぁ、嵌められたのか。
スッと理解した。理解した途端に、もう自分自身ではどうしようもなくなった感情が身体の内側を這いずり回る。
そっとその場を離れて、声が遠くなったタイミングで走り出す。無我夢中で。ただ今は誰にも会いたくなかった。もう何とも関わりたくなかった。
逃げるように走っていると、誰かとすれ違った瞬間にぐんっと腕を引かれた。
「ナマエ?」
千冬だった。
今一番会いたくなかった。
「悪い、センコーに呼び出されて迎えに行くの遅くなった。そんな走ってどうしたんだよ?……お前、泣いてる?」
次々に繰り出される千冬の言葉。
「……いよ、」
「え?」
「もういいよ、別れてあげる」
私の言葉の意味が一切理解できないといった表情でこちらを睨む千冬。
「幼馴染ちゃんが言ってたよ、私たちもうすぐで別れそうだって。すごく嬉しそうに話してた」
千冬がどんな反応をするか、一種の賭けみたいなものでもあった。私の言葉を信じてくれたらいい、彼女だから信じてくれると思っていた。
だけど、私が見た千冬の表情はどんどん険しくなり、先ほどまで僅かに心配を滲ませていた瞳は汚物を見るような色に変わった。
「お前そんな嘘つくような奴だった?しょーもないこと言うなよ」
「……嘘じゃないよ」
「あいつはそんなこと言うやつじゃない」
もういいや。信じてもらえないならもういい。話す意味がない。
しばらくの沈黙。それを破ったのは私だった。
「もういいや。別れよう。一瞬でも期待した私が馬鹿だった」
そう、結局馬鹿なのは私ひとりだった。彼女くらい小賢しく生きれたらよかったな。
「そんなに幼馴染ちゃんがいいなら幼馴染ちゃんと付き合いなよ」
「なんでそうなンだよ!人の話聞けよ!」
普段私の前でオラついても、決して私に向かって乱暴な言葉を使わなかった千冬が初めて怒鳴る。
「私の話を聞かなかったのは千冬でしょ!?人の話は聞かないくせに自分の話は聞けなんて勝手なことばっか言わないでよ!」
初めて、千冬に向かって怒鳴った。もう我慢の限界だった。
千冬も私の勢いに驚いたのか、目を見開いて息を呑んだのがわかった。
「……松野なんか、大っ嫌い…っ」
奥歯を噛み締めてその場に吐き捨てられた私の言葉は、千冬との距離が遠くなってから一番彼に届いたんじゃないかと、そんな気がした。
あの一件以来、千冬を避けるようになった。会いたくない一心で登下校の時間からなにから全てを今までとずらして過ごしていると、すぐにテスト期間に入りクラスが別々の私たちは会おうとしなければ会うこともなかった。
松野なんか、大っ嫌い。
そう言ってしまった自分のことが一番嫌いだ。
私は間違ってないと思う。それは今でもそう思ってる。だけど、じゃあ私は千冬に信用してもらえる人間であったんだろうか。幼馴染以上に信用してもらえていなかったからこそ、あそこでなんの疑いもなく嘘だと決めつけられてしまったんじゃないか。そう思うと今度は自分の不甲斐なさが招いた結果だったのでは、とも考えるようになった。
「なーに考えこんでんの?」
ぼんやり机を見つめてここ最近のことを脳内再生している私の目の前にひょっこりと現れたのは、あの日あの幼馴染と一緒にいた彼女だった。
あの日以来、彼女のことは信用出来ないが、それでも一緒に過ごすことはできた。女なんてそんなもんなのかなぁなんてちょっと大人びたような事を考える。
「松野のこと?」
「うん、まぁね…もう別れたからいいんだけど」
この子に私たちが終わったことが伝われば、必然的にあの幼馴染にも伝わるだろう。そうすれば千冬と幼馴染がくっついてハッピーエンドだ。それに協力していたこの子もさぞ喜ぶだろう。
そう思っていたのに。
「え」
彼女の表現は私が予想していたものとは違っていた。酷く驚いたように、焦燥感が滲み出た顔つきで目線を落としてしまった。
「……ど、したの?」
予想との相違が大きすぎて声をかけると、少しだけ顔を上げて目線をこちらにやる彼女は不安げな顔で、それでもしっかりこちらを見つめていた。
「え、本当に別れたの……?」
「別れるって言った。けど……私が言い逃げみたいにしちゃったから松野がどう思ってるのかは……」
「そっか……」
彼女はそれっきり黙ってしまった。
数分すれば授業開始前の予鈴が鳴る。席に戻るように促すと、作りきれていない笑みをこちらに向けて、彼女は自席へと戻って行った。
彼女の表情の意図が掴めないまま、私も授業の用意を机の中から引っ張り出した。
放課後、自習室を使おうと教室を覗くと、テスト期間ということもあり満席状態。先日のこともありこの教室にいい思い出はないので、正直なところこれはこれで良かったのかもしれない。
あの子は結局一日中ぼんやりと何かを考えているようだった。誰に話しかけられても聞いているようで聞いていない相槌とか、そうだね、なんていう微妙に噛み合わない返事が多いように思った。
何をそんなに考えることがあるのか。あの幼馴染への報告について考えていたのか。それならもっと嬉々とすればいいものを。
胸の中にもやもやと、昏い煙のようなものが渦巻く感覚。最近こんな事ばかりだなと胸を押えた。
空き教室がないか探しながら廊下を歩いていれば、奥の教室が誰にも使われず空いていた。ラッキーだと思いドアを開けて入ろうとすると、後ろから押されてしまい自分の意思に関係なく強制入室。突然のことに驚いて振り向けば、ガラガラと引き戸を閉じている千冬がそこにいた。
「……何してんの?」
意味がわからなさすぎて、思わず声をかける。
私の問いには答えず、それどころか口も開かない始末。突然やって来て人を教室に押し入れてだんまりとは。
だんだん腹が立ってきた。
朝、少しでも自分が悪いのでは、なんて考えた瞬間があったことすら馬鹿みたいだ。
「用がないならそこどいて。松野がここ使うなら私は別のところ使うから」
そう言えばぴくりと頭部が動いた。ゆるりと頭をもたげ、視線をこちらに寄越す千冬。
「……それ、やめろよ」
「それ?」
「松野って呼ぶの……他人みたいだろ」
「他人でしょ」
千冬の言葉に間髪入れずに返せば、千冬の眉間にシワが刻まれた。不良が凄むのはやめてほしい。一般人からしたら恐怖だ。
それでも結局そんな顔もかっこいいと思ってしまうのだから、惚れた弱みは不良の凄んだ顔よりも怖い。
「俺別れるって言ってねぇけど」
「そんな子供みたいな駄々こねないでよ。私は別れるって言った。片方の気持ちがなかったらそれはもう付き合ってることにはならないでしょ」
子供みたいな駄々を捏ねているのは私かもしれない。それに、片方に気持ちがなければ成立しないのであれば、私たちの交際期間は2ヶ月ほどだったことになるだろう。約半年付き合って、千冬の気持ちが私に向いていない期間が長すぎたような気がする。
「付き合う時も同意の上だったんだから別れる時も同意の上でだろ」
普段バカなくせしてこういう時だけ本当に頭の回転が早い。
「……わかった。じゃあもう一回言う。別れて」
「嫌」
早かった。しかもちょっと食い気味で来るものだから思わず口を噤んだ。
何も言わず、ただじっと、半ば睨み合うように視線を合わせるだけの時間が続いた。数分なのか、数十秒だったのか、はたまた数十分だったのか。とにかく詳細な時間はわからないが、目を合わせ続けて幾許か経ち、堪忍袋の緒が切れる前に私が口を開いた。
「なんなの?私の言うことも信じられないんでしょ?私のこと嘘つきだと思ってるんでしょ?ならもういいじゃん、そんな嘘つき女と付き合い続けなくて。別れてあげるって言ってんだからこんな女とさっさと別れて可愛い信用できる幼馴染のとこに…っ!?」
私の恨言は最後まで音になることはなかった。がばりと音がしそうな勢いで私を包んだ千冬のせいだ。鼻腔を擽る、優しく甘いのに、しつこすぎない爽やかな匂い。今日も多分クラスの男子とグラウンドにでも行ったのであろう、少しの土埃の匂い。そのどれもがあまりに私の知る“松野千冬”を物語っていて、息が苦しくなる。離れようともがいても、身じろぎを許さないかのように腕ごと抱き込まれれば、女の力で敵うはずもなく結局先ほどよりもより強くその匂いを感じる結果となてしまった。
もはやこうなってしまっては諦める他ないと、全身に入れていた力を抜いて大人しくする。
「……わかった。話聞くから。逃げもしないし大人しく聞くから離して」
「無理顔見られたら死ぬ」
「じゃあ死ね」
身勝手すぎる言い分に容赦なく言い返すと、おずおずと力を緩める千冬。
「仮にも彼氏だぞ……」
「首の皮一枚ギリギリ繋がってるだけのくせして偉そうにしないで彼氏(仮)」
ひでぇ、なんて小さく呟きながら、お互い暴れたせいで多少乱れてしまった衣服を正す。
「で?なんでそんなに別れることを拒否するの?」
「……ごめん」
やっと会話を始めた千冬の口から出たのは謝罪だった。
「なにがごめんなの?」
この引き止め続けている状況にか。はたまた幼馴染を優先したことなのか、私の言ったことを信じなかったことなのか。
私の予想はそのどれもが正解で、そして不正解だった。
「全部……全部聞いた。あいつが俺をずっと好きだったこと、俺と付き合ってるお前をよく思ってなくて別れさせようとしてたこと、そのためにわざと俺とナマエとの時間を奪ってたことも……」
「ちょ、ちょっと待って」
千冬の口から語られる謝罪の内容は間違いなく事実だと思うが、一体それを誰から聞いたのか。あの幼馴染が突然自白するとも思えない。
「それ、誰から聞いたの?あの幼馴染が自分で言ったの?」
「……違う。正直今日の昼まではナマエが言ってたことも信じれてなかったし、幼馴染を悪く言われたと思って怒ってもいた」
でしょうね、と続けそうになるのをぐっと堪え、黙って続きを聞く。
「昼休みに、いつもナマエと一緒にいるやつに呼び出されたんだよ」
「え」
どうしてそこであの子が出てくるのか。どうしてあの子が千冬を呼び出すのか。
もはや私には彼女の考えがわからなかった。
「それで空き教室に移動して、黙って聞くように言われて携帯から音声が流された。どっかで聞いたことあると思ったらあいつの声だった」
音声の内容は、あの幼馴染の企みや私への悪口、千冬がどうしたら私と別れて自分と付き合うのか、そんな内容だったらしい。
どうして彼女がそんなことをしたのか。理解できなかった。あの子はあの幼馴染の味方だったんじゃないのか。
ひとり混乱に陥っていると、そんな私の顔色を伺うように千冬が顔を覗き込んできた。
「……大丈夫か?あいつもすごく心配してたし、なんなら俺怒られた」
まぁ当然だよなと自嘲する千冬。
「「これ聞いてもまだあの子より幼馴染を優先するの?」って自分のことみたいに怒ってた。お前のダチ、絶対に物証押さえてやるってあいつと必死に仲良くしたって言ってたぞ」
すげぇな。そう言った千冬の表情は、本当に彼女を尊敬している色が滲んでいた。
結局その音声を聞いた後、千冬があの幼馴染を個別で呼び出して全部問い詰め自白させ、彼女の気持ちには応えられないと断ったと。今日あったこと、そしてこれまでのことの顛末を聞いた。
「本当に悪かった。あいつを優先してたつもりはなかったけど、言われてみればそう思われても仕方ないよな」
「……それも怒ってるけど、一番はそれじゃないよ」
真摯に向き合って謝る千冬に少し意地悪だっただろうか。
だけど、どうしてもあの時のことを思いだせば、未だ新鮮に心にどんよりと重く暗い煙が胸に沈澱するのだ。その原因は、あの子を優先していたからではない。
「……信じてほしかった」
ぽつりと言葉が落ちた。千冬がくっと息を呑み、身体が強張るのが伝わってくる。
「疑ってもいい、幼馴染を大切にしてもいい、一回で信じてくれなくてもいい。でも、話は聞いて欲しかった。たった一言聞いただけで理由も聞かずに否定なんてしないでよ」
顔を上げて千冬の顔を見ようにも、視界が歪んでうまく見えない。ゆらゆらと視界で揺れている千冬がこちらへと手を伸ばしてくる。伸ばされた手が視界の端に移動して涙を掬っていく。やっと歪みのない視界で捉えた千冬は辛そうに眉間に皺を寄せていた。
「ごめん。ほんと、ごめん」
何度も何度も謝る千冬。
「ちゃんと聞かなくてごめん。お前が言ったこと、すぐに信じてやれなくてごめん。俺が一番に信じなきゃいけなかった。他の何を信じなくても、お前の言葉はしんじるべきだった」
俺、お前の彼氏なのにな。そう言って、遂にはしゃがみ込んでしまった。ぐずりと聞こえた音に、私もしゃがんで千冬の顔を覗き込む。
「なんで千冬が泣くのよ。泣き虫」
「うるせぇ。彼女のこと信じられなかったなんて、情けなさすぎるだろ」
「本当にね」
私の同意にバツが悪そうにする千冬に、でも、と続ける。
「情けなくてもちゃんと反省できる千冬が好きだよ」
私の言葉に反応して風が起きる勢いで顔を上げる千冬。そのまま数秒見つめ合う。
何度も行ったり来たりと落ち着きのない手を視界に捉えると、再度千冬に向き直る。
「抱きしめてくれないの?」
ん、と両腕を広げると、驚いたように目を見開き遠慮がちに抱きしめられる。最初は触れるか触れないかという程度で彷徨っていた手は、私の拒絶がないとわかった瞬間にぎゅっと肺を引き絞るようにきつく抱きしめた。
「くるじ…っ!」
潰れたカエルのような声しか出せない私にお構いなしにぎゅうぎゅうと抱きしめる千冬。
「俺、まだお前の彼氏でいていいの…?」
耳元で弱々しく呟かれた言葉は、千冬にしては珍しく小さく赤子のような頼りなさや不安が滲んでいた。いつだって自分の信じた道をいく千冬が、こんなに不安そうな様子を見たことがなかった。
肯定の意味を込め、千冬の背中に腕を回してゆっくりと撫でて、たまにとんとんと手のひらを弾ませる。
大切にする、と小さな決意を西日がとうに沈んで暗くなった教室に落とした。
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