白貌は闇に埋もれる
やばい。やばいやばいやばい。
正常でない音が脳内に響く。身体ではごうごうと血液が流れる音と皮膚を突き破って出てきてしまうんじゃないかと思うほどに伸縮を繰り返す心臓の音が響く。耳の奥でぜっぜっと人間のものか怪しい呼吸音が鳴る。
工場の物陰に隠れ、ぴちんっと上から垂れ落ちてきた水が水溜まりにはねたのを見てどうしてこんなことになったのか、酸素の足りない頭で必死考えた。
今回の任務はなんてこと無かった。最近怪しい動きをしているキャバクラが数店あるから調べてこいとボスから指示があり、各店舗に体験入店で忍び込んだ。体入の人間にそこまで詳しい事情を話してくれる店側の人間なんているはずもなく、応援部隊をお願いして店を忙しくすることで隙を作った。どの店舗でもバックヤードで確認した資料にいくつか怪しい点を見つけ、証拠を押さえてあとは事務所に戻るだけだった。
スムーズすぎたと言えばスムーズすぎたのかもしれない。
事務所に戻る道中で黒塗りのバンが隣にゆっくり止まった。瞬間駆け出した。駆け出す一瞬、視界の端でバンの中から人の手が伸びてきたのが見えた。
「捕まったら絶対やばいやつ…っ!」
もう頭の中には逃げ切ることしかなく、闇雲に駆け回った。
背後から聞こえてきていた怒鳴り声に対抗する術を私は持っていない。同僚のあの兄弟やピンク頭なら平気だったろうこの状況も、私にはなんて事ないピンチだ。
そこではたと気がつく。
そういえばいつの間にかあの恐ろしい程の怒声が、乱暴な足音が、聞こえなくなっていた。
逃げきれた?
そう思うと同時に後ろでジャリ…とゴム底が地面を踏む音がした。振り返るよりも先に肩から背中にかけてを棒状の物で殴られる。地面に倒れてもなお保っていた意識が、布で口を塞がれたことによって遠くなり、遂には手放してしまった。
ぐらり、と自分の身体が傾く感覚で目を開いた。
冷たいコンクリートの床に無造作に投げ捨てられた私の身体は、先程までは多分座らされていたのだろう。お尻が少し痺れている。体を起こそうとすれば、両手両足がしっかり固縛されていることに気づく。
身体を揺すれば頭蓋骨を直接ハンマーで殴られているように頭が痛む。意識すれば最後、肩甲骨付近もじくじくと痛み始めた。
「……あー、完全にしくった…」
ぽろりとこぼれた声に、目の前の扉が開く。
「お目覚めかぁ?」
扉から顔を覗かせた男は、ニタニタと下卑た笑みを浮かべて此方へと近づいてきた。
「来んな…っ」
近づいてくる男を少しでも遠ざけようと後ろに下がるも、先程まで私の背中を支えていたであろう壁に阻まれる。
「オレ、気の強い子好きだよぉ」
気持ち悪く延ばされた語尾に吐き気と悪寒が胃を駆け巡る。
するりと男の手が太ももを滑ったと思った瞬間、もう片手に握られたアウトドアナイフがブラウスの裾に引っ掛かり、そのままビィッと音を立て上に向かって裂かれた。襟の少し下で首の皮一枚繋がったブラウスはもはや肌を隠すという本来の目的を果たしていない。
「……っ!」
羞恥心や焦燥感に勝る悔しさに息が詰まる。
こんな汚い人間に負けるのか、呆気なく組み敷かれるのか、そんな自分が嫌で目の前の下品なたんぱく質が気持ち悪くてぼろぼろと涙がこぼれる。
その様子を見た男が口角を吊り上げた瞬間、男の額のその真ん中に鮮血が咲いた。遅れてタンッとブレない発砲音が鼓膜に届く。ずるっ、とこちらに傾いた男を避ける間もなく、しかしその肉塊はぴたりと不自然に動きを止めた。かと思ったら今度は後方にぶっ飛んでいき、私はただそれを眺めるしかなかった。
「大丈夫か!?」
肉塊の後ろから現れのは珍しく汗を滲ませた同僚。灰谷竜胆だった。
「りん、ど…」
なんで、どうして、聞きたいことは沢山あるのにどれも言葉にならなくて、ただ先程の悔しさとは違う意味の涙がぼろぼろとまた視界を濡らした。
私の全身を一瞥した竜胆はジャケットを脱ぎ、ブラウスを裂かれた私にそれを被せると身体を起こして手足の拘束を解いてくれる。
「待ってろ」
優しく私の頭を撫でて、後ろから聞こえてき出した怒号と暴れる音に向かってゆっくりと歩みだす。そこからは一瞬だった。
竜胆に殴り掛かる男は皆なぎ倒されたし、竜胆に銃を向ける人間がいれば容赦なく撃ち抜かれた。足を、腕を、或いは腹を。しかしそのどれも致命傷にはならず、撃たれた人間は絶叫を上げてのたうち回り、なぎ倒されあらぬ方向へと人体を曲げられた人間はただ呻くことしか出来なかった。
あまりにも鮮やかすぎるその手際としなやかな体躯に、言い知れぬ恐怖心が湧き出てくる。
「…いい、もういいよ竜胆…っ!」
私の小さな叫びはそれでも竜胆の耳には届いたようで、胸ぐらを掴んで振り上げていた拳をゆっくりと下ろした。竜胆の周りには戦意喪失した男たちが地面と同化していた。あちこちから聞こえる呻き声と、もはや呼吸すらもしていない肉塊。
掴んでいた男を放り投げた竜胆がこちらへ向かってくる。ただ竜胆がいるという安心感が欲しくて必死に竜胆に腕を伸ばした。
ゆっくり抱き締めてくれる竜胆の手は先程まで人を痛めつけていたと思えないほどに優しく温かかった。
「いっそ死にたいと思うぐらい苦しめてやろうと思ったけど、コイツにこれ以上お前らの姿も声も晒す気はねぇからここで殺してやるよ。コイツに感謝するんだな。」
竜胆の声を合図にするかのように一斉に聞こえた銃声と一瞬で聞こえなくなった呻き声。
「頼むからもう1人で無茶すんな。危ない時は真っ先に連絡しろ」
「ん…ごめん、」
グッと竜胆に抱き上げられる。恐らく床一面に広がっているであろう肉塊は見ないように、竜胆の胸に顔を押し付けながら外へと運ばれた。
俺がちゃんとお前を守るから。竜胆が小さく呟いた言葉は聞こえなかったフリをして、そっとその胸で目を閉じる。
次目が覚めたら言わせてね。ありがとうって。それから、好きだよって。
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