あなたの愛を嚥下する
真っ暗な闇の中、どこからともなく聞こえてきた無機質な機械音。あぉ、アラームが鳴ってる。そう認識すれば、海の底から引き上げられるように意識を急浮上させられた。物の輪郭すらぼやける寝ぼけ眼で必死に枕元に探ると、未だ耳障りな音を響かせる端末を手に取り、幾分か見やすくされている赤丸バツ印をタップする。ピタリと止んだ音に再度枕へ顔を埋めた。
なんだかぐるぐると回っている気がする。
寝ぼけが抜けない身体を起こして洗面台に向かう。まだ覚束無い足取りでふらふらと、洗面台に向かうまでに何度か壁などにぶつかってしまった。
「……いった…」
ぼやきながら蛇口から流れる水がぬるま湯に変わるのを待ち、温度を見計らって顔を流せば先程よりは幾分かマシになった。
ふぅ、と一息ついてのそのそと出勤の準備をし、今日もまた人で押し寿司のようになる電車に揺られて会社へ向かう。
「おはようございまーす」
間延びした挨拶に嫌な顔もせず挨拶を返してくれるこの職場が嫌いではなかったりする。
だからこそ彼氏に何度か会社を辞めるように言われたとしても辞められないのだ。それにたぶん、辞めてしまったら社会との繋がりはなくなってしまうだろう。三途春千夜は"そういう世界"に生きる人だから。2ヶ月ほど会っていない恋人に思いを馳せた。
自席に着席してパソコンを立ち上げると、また視界がふわりと揺れる。うっ、と目を瞑って静止していると治ってくる感覚。ゆっくりと目を開けると、ログイン用のパスワードを求められる画面まで進んでいた。指示に従ってパスワードを入力してメールと今日の外回りの資料を確認する。ずっと回っている視界に若干苛つきを覚えたのは許してほしい。
「ミョウジ、行けるか?」
資料を揃え終わったところで先輩から声がかかる。いけます、とだけ短く返して資料と電子端末を鞄に放り込む。椅子から立ち上がった瞬間、またぐらりと視界が揺れた。ただこれだけ朝から揺れていればその揺れにも慣れてしまうもので。今度は足を止めることもなく先輩についていった。
1件2件と回って次の訪問先に行こうと道中信号待ちをしている際に、これまでよりも強く視界が揺れる感じがした。
やばい。
そう思った瞬間上下左右分からなくなり、体が硬い何かに叩きつけられる感覚がした。嗅覚が特有のにおいを捉えて、あぁコンクリートだなと理解する。
早く起きなければ。先輩が心配する。
そう思っても身体がいうことを聞いてくれないし、意識が遠くなってきた。遠くで先輩が私を呼ぶ声を聞きながら、そのまま暗闇に身を落とした。
暗い底から意識が浮上してくる感覚。瞼越しに網膜が光を捉えて視界が白く滲む。
どれほど目を瞑っていたのか、光に目が慣れず億劫になる開眼。ゆっくりと目を慣らすように徐々に開けていけば白い部屋。
ここ、どこ?
「よォ、ポンコツ」
白い部屋に似合わないピンクが視界に飛び込んでくる。
「ちよ…?」
よく知っている綺麗な顔に目を見開く。
「そう、春千夜。ここ病院。お前道端で倒れたんだってなぁ?」
素早い状況説明と嫌な予感しかしない質問。到底病人に対する態度とは思えないくらいの勢いで頬を掴まれる。
「体調悪い時は言えって言ったよなァ?そんなことも覚えらんねぇ脳みそで仕事できてんのか?」
あん?と顔を近づけてすごまれる。
「……春千夜」
「……ンだよ」
「好きだよ」
特段言うつもりもなかった言葉がぽろりとこぼれた。
私も予想していなかった言葉が私の口から溢れれば、不機嫌に歪められていた春千夜の大きな目がさらに大きく見開かれる。
「…過労だってよ。なんでそんな働いてたんだよ」
なんでなんて、
「そんなの私が聞きたいよ」
一言吐き捨ててぷいっとそっぽを向こうとすると、掴まれたままだった頬によって阻まれた。
「ここ最近人の仕事まで手伝ってたって聞いた。なんでそんなことしたのかって聞いてンだよ」
全てがバレていた。分からないわけないだろとでも言いたげな口調と表情で、もうどうにでもなれという気持ちで降参。白旗だ。
「……寂しかった、から…」
掴まれたままの頬でもごもごと理由を呟く。そんなことまでお見通しだとでも言うように、ぐにぐにと頬を弄ばれる。
「…いひゃい…」
「一緒に住めばいいだろ」
「仕事は辞めたくない」
春千夜と一緒に住むというのはそういうことだ。春千夜の家に出入りする女なんてものがいれば、この人によくない感情を持っている人間はこぞって狙うだろう。それであれば外出もままならない、仕事なんて以ての外だ。
何度も春千夜と話し合って、喧嘩して、それでも解決はしなかった。2ヶ月前に会った時もそのことで喧嘩したんだったと思い出した。
学生時代から続く春千夜との交際は、こうして私のわがままと春千夜のわがままが折り合いをつけられるところを見つけられず、ずるりずるりとベルベットの生地が絨毯を擦るように重く未だに引き摺ってこられている。
「週一回」
「なに?」
突然の数字に春千夜を見上げると、一瞬だけちらりとこちらに目線をやった春千夜と視線が交わってすっと逸された。
「…週一回、俺がお前の家に行く」
春千夜からの歩み寄りに、驚いて身体を起こすと、白く骨ばった手で肩を押されてベッドに逆戻り。「動くなボケ」という優しさの見えない言葉を発する声と音程に優しさが滲み出ていて、いつまで経っても不器用なままだなと思った。それと同時に、不器用な彼なりに歩み寄ろうと精一杯考えてくれたんだろうと。
「どっかの誰かさんが一緒には住みたくないって言うし?そのくせちょっと会わないだけで寂しくて仕事詰め込んで倒れやがるし?」
言い方が気に食わないし少々腹が立つがその通りなので何も言えない。
「だから春千夜が折れてくれるの?」
俺は優しいからなぁなんて言う春千夜。
「そっかぁ。随分とその“誰かさん”のことが大好きなんだねぇ。愛されてるなぁ“誰かさん”」
春千夜の言葉を捉えて何度も連呼すると、反論をしようとやっとこちらを向いた春千夜。
途端に気が削がれたのか、先程とは違った意味で口をへの字に曲げる。
「ンだよ…嬉しそうな顔しやがって」
「ふふ、ねぇ春千夜」
無言で私に向かって小首を傾げる春千夜の手を取って指を絡める。
「退院したら、うちに置いておく春千夜の物、買いに行こうね」
私がそう言えば、「同棲じゃねぇンだぞ」と言いながらも、蜂蜜のように蕩けた瞳でこちらを見ているのでなんの説得力もない。
どれだけぶつかっても振り払われないこの手を大切にしようと、あの頃より少しだけ大きくなって骨ばった手を指先で撫でた。
magazzino