現実的な雑音
「自分で私のことを遊びだって言ったんでしょ」
怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ淡々とした自分の声が部屋に響く。
ナイフのような言葉の切っ先を向けた相手は、私の目の前で呆然とこちらを見ている。私の胸には目の前の男、河田ナホヤから放たれた言葉がずっと刺さったままだ。
多分今日はお互いに虫の居所が悪かった。
ナホヤは喧嘩で負けたのかソウヤくんとケンカしたのか、はたまた全然関係ないことで機嫌を損ねていたのか分からないが、兎に角いつもより口が悪くなっていたのは明らかで。かたや私はというと生理前やらテストの結果やらでそこそこに機嫌がよろしくなかった。
普段なんでもないことにも生理前は平気な顔をして腹を立てる悪魔と化する自分を知っているため、本当は今日ナホヤに会う気はなく、デートも申し訳ないがリスケにしようと思っていたのだ。
ところがその旨を連絡すれば、『お前ん家行くわ』とだけメールが届いた。うちに来たナホヤも最初は気遣ってくれたりと優しかったのだが……。
もはやきっかけなんて覚えていない。何が発端になったのかなんて覚えていないのだけれど、多分小さな小競り合いがナホヤの不機嫌を助長させ、私のPMSを増幅させた。
最終的には売り言葉に買い言葉だったのは覚えている。お互いを傷つけるためだけに放たれる言葉に辟易とし始めた頃、それでもナホヤが言ってはいけない言葉を振り翳した。
「もういいワ。どうせ遊びだし」
「……なにそれ」
それまでの勢いだけの反論とは違う、冷ややかで静かな一言。
たぶんナホヤは私がまた勢い任せに反論すると思ったんだろう。冷え切った私の目を見るなり、口の悪さとは裏腹にいつも静かに閉じられ僅かに笑んだ表情が強張った。
「あ、いや……っ」
そう続けたナホヤも、言ってはいけないことだったと気づいたのだろう。
だけどもう遅かった。
炎で一番熱いところが意外にも青い部分であるのと同じように、人は本気で怒ると案外冷静になるものなのだ。
「態々遊びの女の家に来て面倒まで見てもらってごめんね、もう帰っていいよ」
自分でも驚くほど冷たく吐き出された言葉に、ナホヤが息を呑む音がした。
「ちが、」
「なにが違うの?自分で私のことを遊びだって言ったんでしょ?」
反論の余地など与えぬままに、淡々と言葉を被せていく。
今まで何度もナホヤとはケンカをしてきたが、ここまで静かに怒ったのは初めてかもしれない。
「もういいよ、出てって」
「おい」
「出て行ってってば」
基本手ぶらのナホヤに携帯と財布を押し付けて自室から追い出し、玄関で靴を履くよう促す。ぐいぐいと押せば、簡単に抵抗できるはずのナホヤはそれでも押されるままに家の外に出る。
「おい、話聞けって」
「今河田の顔見たくない」
“河田”。その音にぴくりと動きが止まってしまった。
きっと今は何を言われたって聞けない。謝られたって素直に受け取れない。
彼と過ごした日々を思い返して、彼の言葉が本心じゃないことくらいわかってはいても、言ってはいけない言葉だってあるんだ。
ばたん、と無情に私とナホヤの世界を隔てる音がした。
夜、おやすみと家族に告げて部屋に戻り、電気を消したままの部屋でベッドに腰掛け携帯を見る。
“新着メールなし”
センターに問い合わせなどしても、ナホヤからの連絡はないという残酷な現実を突きつけられただけだった。
勢いで出た嘘だと思ったけど、本当は本心だったのかもしれない。そんなネガティブな思考が脳内を占領していく。
そもそも告白をしたのは私だ。普段のナホヤの態度から少なくとも好意は感じていたし、少なくとも嫌われているということはなさそうだったから告白をした。結果としてナホヤが告白を受け入れてくれて付き合うことになったのだが、もしかしたらその考え自体が間違っていたのかもしれない。告白されたしなんとなく付き合っただけなのかも。
河田ナホヤはそんな人間じゃないと否定する自分と、そもそも私はそんなにナホヤのことを知っているのかと疑問を投げかける自分で脳みそがいっぱいになる。耳を塞ごうとも自分の中で響く声は消えはしなくて、結局その日は一睡もできなかった。
重たい身体を引き摺りながら、制服に着替えて学校へと向かう。一日過ごしてみて、存外人間は寝なくても活動できるのだと知った。友人や家族といる時は自分の中で響く声は聞こえなくなる。気が紛れているのかもしれない。聞こえないことに安心しても、夜一人になればまた脳内を支配する声はいつまでも鳴り止まなかった。結局また一睡もできず学校に向かう。
そんな生活が続いて4日ほど経った日、遂に身体に限界がきた。
朝から頭がふわふわとして眩暈が酷かった。流石にこの4日で累計睡眠時間が一桁はまずかったかと、3限目の途中で保健室に行く許可を先生に取ろうとして立ち上がったところで、私の意識は途絶えた。
暗い沼の底。重たい身体を持ち上げると周囲は真っ暗。あぁ、夢を見ているんだなと自覚した。周りを見渡しても何もない。一先ず動いてみようと足を踏み出した。
遠くから声がする。
言葉は認識できないが、なにか声は聞こえる。一旦そちらを目指そうと声のする方へ歩いていくと、ほんのり光っているところが見えた。そこに佇む人影。
「……ナホヤ?」
特徴的なオレンジのほわほわとした髪。こちらに顔を向けているナホヤは何を考えているのかわからない表情で、いつもの“スマイリー”と称される所以である笑みもない。
「ナホヤ」
何度呼びかけてもナホヤから反応が返ってくることはない。手を伸ばそうとしたところでナホヤが身を翻して遠ざかっていく。
待って。
たった一言なのに、喉が張り付いたように出てこない。追いかけようにも、夢ですら言葉を交わしてもらえないならもう無理なのかもしれないと、伸ばした手は行き場を無くしてだらりと体側に下がった。
ナホヤの前では絶対に流さなかった涙がぽろぽろと頬を伝う。蹲り自分の膝に顔を埋めて泣いていると、ぐるりと世界が回る感覚がして世界が白んだ。
もうその世界に声は響いていなかった。
何かに、誰かに手を引っ張られるような感覚がした。その感覚に導かれるように意識が引き上げられていく。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れてはいないがよく知った、保健室の天井が視界いっぱいに広がる。西日が大きな窓から入り込んで、いつもは真っ白な天井を仄かに暖色に染め上げた。
ふと手に違和感を感じてその違和感の先を辿れば、ふわふわとした橙の髪の持ち主が、まるで祈るように私の手を持ち上げ握っていた。
「……ナ、ホヤ…?」
暫く使われていなかった声帯は鈍く、それでも望み通りの音を絞り出した。
私の声に反応してがばりと顔を上げたナホヤの顔には不安や焦り、そして安堵が色濃く滲み出ていた。表情もいつもの笑みではなく、口は情けない形に歪み目尻と眉尻は不安に垂れている。ここ最近初めて見る表情ばかりだなと思いのほか冷静な頭で思った。
ゆっくりと身体を起こせば、途端ナホヤの腕の中に収まってしまう。ぎゅうっと苦しいほど頭を抱え込まれ、顔がナホヤの胸に押しつけられる。
呼吸ひとつ。
泣きたくなるほど愛おしい匂い。
紛れもなく河田ナホヤの匂いで、心臓が喉元まで迫り上がったように苦しくなる。それと同時にいろんな感情が湧き上がって、捏ねられたハンバーグのタネのようにぐちゃぐちゃになった。
「心配させんなこのボケ……!」
捻り出したように引き攣った声が後頭部の方から聞こえてくる。
初めて聞くナホヤの声に、今まで知らなかった感情が鳩尾のあたりからぐわっと一気に目の奥にまで駆け上ってきた。どうしたらいいのかわからない感情で、それでも何かに縋っていなくちゃ自分が壊れてしまいそうで必死にナホヤにしがみつき、ぎりりと音がするくらいナホヤのYシャツをきつく握りしめた。
"ナホヤ"という言葉しか知らないかのようにただ連呼する。引き攣れた喉から出る声はお世辞にも綺麗とは言えず、動物の呻き声に近い声で涙をこぼし続けた。抱き締められた私の肩口が薄く冷えていた。
二人で一頻り泣いた後、私はまだ僅かにしゃくり上げたままナホヤと向かい合った。
ただ無言の時間が続く。そもそも数日話していない上に、最後の会話は険悪なものだった。先ほどまでナホヤに握られていた手は行き場を無くし、そこにあったシーツを握りしめる。
向かい合っておよそ5分が経とうとした時、ナホヤが口を開いた。
「…悪かった」
一言ぽつりと呟かれただけのそれは、確かに私の耳に届いた。
「保健のセンコーが寝不足だって言ってた。お前のダチも最近のお前は様子がおかしかったって……」
言葉にはしない自責の念で背中を丸めるナホヤ。どんどんと項垂れていく橙。そのどれもが愛おしくて、思わずその橙に手が伸びる。
ぽふぽふと彼の頭で跳ねる私の手を甘んじて受けながら、ちらりとこちらを伺うナホヤ。
いつも強気な彼がこんなに萎んでしまうのが珍しく、思わず笑ってしまった。それには流石にムッとしたようで、口を尖らせながら「何笑ってんだよ」と、それでもいつもより幾分か弱々しい声で怒られた。
「ねぇナホヤ」
私の声に反応して、次の言葉を持つように私から目を離さなかった。
「ナホヤにとって、遊びだとしても私はナホヤが好きだよ」
声が震えた。ぽろりと、先ほど全て流し切ったと思った涙がまたこぼれ落ちる。息を飲んだナホヤはそれをひとつ掬って、私に向き直った。
「遊びなんかじゃねぇよ……ごめん」
何度もごめんと繰り返しながら、シーツを握る私の手を包んで離さなかった。
「もう、何があっても遊びだなんて言わないでね」
ナホヤの顔を見ながらそう言えば、眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をした後、また苦しいほどに抱き締められる。
先ほどよりもゆっくりと息をすれば、肺いっぱいにナホヤの匂いが広がりまた泣きたくなった。
ナホヤの髪と同じ色をしていた空は、いつの間にか深い紺から紫へと変わっていた。
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