レモンイエローの静脈
「もうやだ無理終わらない……」
どんよりとした言葉が、いつの間にか部署で最後の1人となった暗がりに落ちる。なにが働き方改革だ。変わったのは残業するなと吠える国のお偉いさんだけで、実際の業務量は何も変わらずに働ける日だけが減らされて、結局こうして残業になるか持ち帰って仕事をするかになってしまう。
あぁ、今日もまた仕事は終わらなかった。それでも終電間際まで仕事をして、残りはデータをUSBに入れてお持ち帰りだ。幸いにも明日は休日。家でやれば終わるだろう。
鞄に詰め込んだそれらを持って事務所を出ると外は思いの外寒かった。
辛うじて白い息は出ないものの、外気はもう冬のそれに近かい。緩く羽織った上着をしっかりと羽織直し駅に向かって歩を進めた。
“運転見合わせ”
あまりにも残酷な文字が電光掲示板に踊っていた。
最悪だ。終電に間に合うようにと思っていたのに、当該線は一時間ほど前に人身事故があったらしく止まってしまっていた。
どうやって帰ろうか。時間も時間だし、オフィス街なので近くに住んでいる友達もいない。このまま会社に泊まるのも有りかと考え踵を返そうとすると、手の中で握っていたスマホが震えた。
『今どこ?』
差出人は竜胆だった。
『駅だよ』
心配させないように帰宅途中である旨を伝えて改札口から会社に向けて歩き出すと、ドンッと人にぶつかってしまった。
「すみませ……っ」
歩きスマホをしていたのは私なので謝ろうと顔を上げれば、今まさにメッセージを送った竜胆だった。
「竜胆?」
「やっぱりいた。どうせこんなことだろうと思ったわ」
呆れたようにため息をついて、手に持ったジャンバーを私の肩に羽織らせて私の手を取った。
「どこいくの?」
「帰るに決まってんだろバカ」
私の手を引きながら罵倒しつつ、歩調は私に合わせてくれる。そんな優しさが、疲れた心にじゅんわりと沁みる。
「りんど〜」
「……ん、」
私の呼びかけに、わかっているとでも言うように、ぎゅっと手に力を込める竜胆。人より温度の低い私の手と、人より温度の高い竜胆の手。じんわりと体温が混ざり合って溶けていく。視界がゆらゆらとゆらめくのに気づかないふり。
そのまま近くに停めてあった竜胆の車の助手席に押し込められて、一瞬だけふわりと抱き締められた。ぽんぽんと頭を撫でてゆっくりとドアを閉める。そのまま竜胆は運転席に乗り込み、家に向けて発進させた。
帰宅。リビングに着くなり、そのまま崩れるようにソファに倒れ込む。
「せめて服は着替えろよ」
「ん」
一応返事はするものの、もう動く気力はどこにも残ってなかった。指一本だって動かせない。ぐったりと動かない私から器用に上着を脱がせ、そのままクレンジングシートで綺麗に化粧を落としていく。
「まだ寝んなよ」
「ん…寝てない」
「お前それもう寝るだろ」
過去に何度かやったことのあるやりとり。
竜胆も手慣れたもので、今も着々と服を脱がせては寝巻きに着替えさせてくれている。何度も体を重ねてきて、もう恥ずかしいなんて言えるほどのウブさは残っていない。ただテキパキと着替えさせられる手際の良さに感動するばかりだ。
「ん、ありがとう竜胆」
「はいはい。彼女の裸前にして何もしない俺を褒めろよ」
くしゃくしゃと私の髪を乱して、脱がせた服を脱衣所へ持って行った。
暫くして帰ってきたかと思ったら今度はお米様抱っこ。未成年だった時よりは幾分か細くなった身体でも、軽々と担がれてしまうものなんだなと毎回感心する。
ベッドにごろりと降ろされたかと思えば、羽毛布団を首元までしっかりと被せられその中に竜胆も入ってくる。
先ほど枕に預けた私の頭は、ずいっと差し込まれた竜胆の腕枕に預け直された。腕というよりほぼ肩に乗せられた頭は、私の頭を乗せていない方の竜胆の手で優しく撫でられる。
労るその手つきに、脳みそでぐるぐると黒いモヤが踊る。一頻り踊ったそれは、急激に密度を高めるように集まり、弾けた。
「……疲れちゃった」
ぽろ、と口からはみ出した、凝縮された黒いそれ。
私がやりたかったからやったし、頑張りたいから仕事を頑張っている。全部自分のため。とはいえ疲れないわけではない。
「俺お前のそういうこと嫌い」
拒絶の色はない。優しく掠れた、ただ心配されているだけだとわかる声音。
「……頑張りたかったの。何としてでも自分の手でやり切りたかった」
「わかってる。お前のそういうとこ、嫌いだけど……尊敬はしてる」
もうほとんど意識は残っていなかった。連日の疲労と、優しく頭を撫でる手の優しさに、睡魔が勝てるわけなかった。
「ごめんね、りんど……だいすき」
なんとか掴んでいる一粒の意識で伝える。ちゃんと伝わっただろうか。それすらももう確認する術はなくて、もう意識を手放すという一瞬の間に額に柔らかい感触と「明日覚えとけよ」という言葉が聞こえた気がする。
竜胆の優しい脅しに応えたい気持ちもあるが、今はただひどい疲労感が溶けていく感覚にそっと身を委ねた。
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