やさしいナイフで人魚に戻ろう
今私の願い事が叶うならば、言い訳を聞いてほしい。
そんなことを考えるほどに、この人生で片手で足りるくらいの窮地に立たされていた。
目の前には“笑顔なのに恐ろしく笑っていない”灰谷蘭が立っていて、そんな蘭ちゃんを目の前に、私は断崖絶壁という名の壁を背に立つ。
神様が意地悪なのか蘭ちゃんが意地悪なのか、私が今まで散々気をつけてきたことが水の泡と消えてなくなる事件が起きたのは、10分程前だった。
そもそも灰谷蘭という男は、私にとっての全てが彼であることが当然だという人間だ。私はそれでいいと思っているし、好き好んで灰谷蘭を中心に置いて生活をしている。
私の身の回りは蘭ちゃんから贈られたもので溢れかえっていて、彼以外から貰うものはいつだってクローゼットの中の収納ケースに収められる。
但し、蘭ちゃんがいるときは、だ。
私の生活で蘭ちゃんから贈られて物だけで成立しない時は、自分で買ったものは当然として他の人から貰った物を使うことだってある。
だけど、それも蘭ちゃんの目には映らないように、慎重に取り扱ってきた。
今日は遅くまで仕事だと連絡があり、我が家にも来ないということまで記載されていた。だから気を抜いていたとえば抜いていた。
友人から貰った香水を机の上に置いておくほどに。
灰谷蘭という男が、家主の在不在問わず、どこで手に入れたのかわからない合鍵で部屋に入る人間だということを忘れていた。
「なァ、ナマエ?お前はいつから蘭ちゃんに貰ったもの以外を使うような人間になったんだ?」
じりじりと詰め寄る蘭ちゃんに、数ミリ後ずさればとん、と背中に硬い感覚。壁と肩甲骨が仲良しこよしだ。
もう逃げ場はない。
「あの、蘭ちゃん、これは違うくて」
辿々しく必死に口を動かす私を笑っていない笑んだ目で変わらず見つめる蘭ちゃん。
瞬間、ガッ!と音がしそう勢いで頬を掴まれた。ふわりと香る蘭ちゃんの香水にきゅっと鳴る心臓は危機感が足りない。
驚き開口したままの口に、蘭ちゃんの綺麗で長い指が差し込まれる。
やわりと摘まれた私の舌が、そのまま外気に触れるように引き出された。
「言い訳しかしねぇ舌なら引っこ抜いてやろっか」
ん?と首を傾げる蘭ちゃんはひどく妖艶で、それなのに無邪気な子どものようだ。
「こ、こめ、なひゃい…」
無意識に自分の命を救うための言葉を口にすると、やっと目尻に皺を刻んだ蘭ちゃんが私の頬と舌から手を離した。
「イイ子」
友人から貰った物だと説明をすれば捨てられはしないものの、また当分暗がりで眠ってしまうであろう香水。ソレを頭の片隅に閉じ込めて、身体を這う蘭ちゃんの指先に身を委ねる。
今は身体中を巡る全部が、口から吐く息さえも、全て蘭ちゃんで満たされるように。
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