羽化する吐息
午後の授業。お腹も膨れて、ぽかぽかと窓から差す陽の光に瞼が落ちそうになる。教室の特等席である、窓際最後列を勝ち取ったことが唯一の敗因だろう。
チョークが黒板を叩く音と、先生が教科書を音読する声が響く教室で、全ての音をBGMに、斜め前の席に座る千冬を眺めた。
真面目に受けているのか受けていないのかわからないような素振りで、ノートと黒板とを見比べている。その背中を見るのが大好きだ。細いのに意外にも筋肉がついている背中。喧嘩をするせいなのか、はたまた本人のポテンシャルなのか。
ゆっくりと降りてくる瞼に抵抗しながら、愛おしい背中を見つめる。
それでも瞼はやっぱり重力に負けてしまって、頬杖をついたままこくりこくりと陽の光に身を委ねた。
ぺしんっと後頭部への軽い感覚で目が覚めた。
先ほどの授業はいつ終わったのか、みんな席を立って各々友人と話している光景が目に入る。先ほどの頭への衝撃を辿ろうと顔を上げると、金髪と目があった。先ほど背中を見ていた千冬だった。
「千冬?」
「授業中は寝んなよ」
「不良が言うことの説得力よ…」
不良が授業は真面目に受けろとは。
まぁ千冬は比較的真面目に授業を受けているし、説得力がないわけではない。だがしかし不良である。
今日の授業を全て終えた生徒たちは解放感に溢れていて、放課後の予定に胸躍らせている。千冬に今日の予定を聞こうとしたところで、担任の先生が教室に入ってきてホームルームが始まってしまった。自席に戻っていく千冬の背中をまた目で追ってしまうのは許されたい。
ホームルームが終わると、少しずつ人が減っていく教室。やがて千冬と二人になってしまった教室で、「この後どうする?」と聞くとノートを差し出された。
「ほら」
「なに?」
「今日お前が寝てた分のノートだよ!」
まさか本当に千冬がノートをとっているとは思わず驚いたが、一先ず受け取ってありがたく写させてもらう。
教室には夕方特有のオレンジの光と、私がノートを移す音が滲む。千冬はただそれを見ている。黙って写しているところを見られているのは気恥ずかしいけど。
「なぁ」
静かだった教室に響く千冬の声。8割ほど写し終わったノートから顔を上げると、思っていたより近くにある顔に思わず身を引いた。
「な、なに」
「今日なんでずっと俺のこと見てたんだよ」
穴開くかと思った。
ちょっと意地悪そうな顔をしてそう続けた千冬に、心臓がきゅっと音を立てた。
言えるわけがない。あなたの背中が好きで見てましたなんて。
「なぁ、なんで?」
尚も聞こうとする千冬に首を横に振ると、今度はあからさまに不機嫌に歪められる顔。
「なんで言えねンだよ」
私の前の席で後ろ向きに椅子に跨った千冬。ノートの乗った机に組んだ腕を預け、そこに自身の顎を乗せた。むすっとした表情でこちらを見上げる千冬に白旗を揚げる。頼むから私の好きな顔でこちらを見ないでくれ。
「……恥ずかしいから、言いたくない」
顔を隠して絞り出したやっとの解答に、それでも不服を滲ませる千冬。先ほどまでと違うのは、僅かに悪戯心を滲ませたことだ。
「なにが恥ずかしいんだよ」
なぁ、と詰め寄ってくる千冬。椅子で逃げられる範囲なんて決まっていて、早くも限界だ。耐えられなくなって椅子から立ち上がり逃げようとすると、素早く手を掴まれて引っ張られた。顔の距離が20センチまで近づく。
「う、ぇ…!」
何とも情けない声しか出なかった。そんな私に気を良くしたのか悪戯っぽく笑う千冬に、今度こそ心臓が皮膚から出そうなほどに大きく脈打った。
「千冬の背中が……好きだから、です」
とうとう観念してしまった。
千冬の顔がみるみるうちに、私に負けないくらい赤くなる。
「ごめん……」
謝罪を言葉にすると、千冬が口を開く。と、廊下の方から男生徒たちの声がした。千冬にも聞こえたのか、そこにあったカーテンをジャッ…!と引いて私たちの姿を隠す。男子生徒たちの声が段々と近づいてきて、かなり近くで聞こえたと思ったらぴたりとやんだ。そのまま走っていく音が響く。おそらくこちらに気付いたのだろう。
足音が遠ざかり、カーテンを戻そうとすればその手を取って遮られた。取られた手の指先を絡め取られ、そのまま千冬の方に引かれた。
一瞬。唇が千冬の唇に触れた。少しカサついた唇の感触がやけにリアルで、理解した途端に鳩尾の奥からぶわりと血が顔に集中する。
「……ばーか」
夕日だけのせいじゃないほどに赤く染まった千冬の頬。きっと私も同じ色に染まっているんだろう。
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