小さな世界平和
先程まで女の息巻く声と、対して静かにしかし確かに怒りを滲ませた男の声が響いていた部屋には、今は時計の秒針の音が小さく聞こえるだけだった。
わかっている。今回のことは完全に自分の八つ当たりだ。それで青宗のことを怒らせた。
言い訳になってしまうのだが、所謂生理前でいつも以上に些細なことでも気が立ってしまって、もう自分でもどうしようもなかった。普段の私なら笑って許せていたことが、今日に限ってはダメだった。
普段から女心の理解に欠けるというか、基本的に見目麗しい外見とは似合わない粗雑さを持つ青宗。少しでも可愛くいようとヒールを履いて外出をして靴擦れになってしまった際も、「靴擦れするくらいならもっと履きやすいやつにしろよ」と可愛さよりも機能性重視のお言葉を頂戴した。そんな青宗に生理前だから理解しろ、なんていうのは無理な話。PMSについては一応それとなく伝えたことはあるものの、理解したのかしていないのか曖昧な返事だったので、期待はしないようにいようと決めたのだ。
そんな生理前に情緒が不安定になりやすい私が、今日青宗が働いている店先で女の子に笑いかけているのを見てしまった。今までにも何度か同じような場面に遭遇したことはあったものの、嫌だと感じつつ見て見ぬ振りができた。情緒が安定していたからだ。今日は情緒が安定していなかっただけ。たったそれだけで、心がぐちゃぐちゃに捏ねられた。最悪なことに、帰宅した青宗にその感情をぶつけてしまって喧嘩勃発。
我ながら情けない。
「青宗は私のことなんも分かってないよね!」
そう逆上した私に
「じゃあお前は俺のこと分かってんのかよ」
と、憮然とした声で言い捨てた。
そう問われれば何も言い返せず黙りこくってしまった。そんな私の横を通り過ぎた青宗は、そのまま玄関のドアを開けて外へと出ていってしまった。
最悪だ。完全なる私のエゴだ。
何度思い返しても私が悪い。そうならないように気をつけていたのに。なるべく温かい気持ちで過ごせる空間にしようと思っていたのに。全て水の泡だ。
一頻り後悔の念に身を浸し、パンッと両頬に気合いを入れた。いつまでもくよくよしていても仕方ない。やってしまったことは戻らないのだから。
青宗が帰ってきたらちゃんと謝ろうと決めて、気を取り直し洗濯物を取り込んだ。
あれから1時間ほど経ったが青宗はまだ帰ってこない。晩御飯の支度も済ませて、一息つくためにコーヒーを淹れて飲もうとマグカップを手に取れば、その手に静止がかかった。マグカップを私の手から奪い取ったのは青宗で、代わりのように渡されたのは温かいペットボトルのココア。
「え、青宗…?」
「カフェインはやめとけ」
私から奪ったマグカップを食器棚に戻すと、ぐいぐいと手を引かれた。驚き抵抗する間も無く引きずって来られたのは寝室。訳もわからないままベッドに転がされると、手厚く布団を被せられる。
「え、なに……?」
理解が追いつかず問いかけると、ちらりと様子を伺うようにこちらを見る青宗。
「生理前なんだろ。カフェインは良くないらしいからやめとけ」
布団の中で私の手に握られるココアの温度を思い出す。ぶっきらぼうな物言いの中に感じる、彼なりの優しさに、手に握られた温度以上の暖かさを感じた。
「生理前は情緒不安定になるって前に言ってただろ。怒るだけじゃわかんねぇからどうして欲しいか言えよ」
地べたに胡座をかいてこちらをじっと見つめる青宗に、申し訳なさと前に言ってたことを覚えていてくれてたことが嬉しくて水分が瞳を包んだ。
「女と話すのが嫌か?」
青宗の声にはもう怒りはなくて、優しく問いかけられた。
ふるふると首を横に振る。
「違う、そうじゃない……仕事だって分かってるの」
うまく言葉を継げない私の手を取り、握ったまま耳を傾けてくれる青宗。
「ただ、不安になっただけ……青宗顔良いし、仕事中は優しい口調で話すから……ごめんね」
ぐずぐずと鼻を啜る私の涙を自分の服の袖で拭って、謝んな、となんでもないように言う青宗に心臓がぎゅっと音を立てた。
「仕事だから話さないのは無理だし、客商売だからある程度愛想良くするけど」
ひとつ息をつく青宗。
「俺が大事にする女はお前だけだから」
普段話し方も粗雑で口調が優しいとは言えない、ある意味で男らしい彼は、存外平然と甘い言葉を吐くのだと知った。
じっと見つめてくるその瞳に、私の方が恥ずかしくなって布団で顔を隠せば、お前が照れたらこっちまで恥ずかしくなるだろ、とちょっとズレた照れ感覚をぶつけられた。
いつまで経ってもこの両手の温かさは忘れたくないなぁ、なんて思いながら繋がれた手を握りしめた。
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