この涙がこぼれませんように
目を覚ました時、真っ白な部屋にいた。
腕の先には管が繋がっていて、そのまた先には点滴袋。透明な液体がぽたぽたと一定の間隔で落ちるのを、ぼんやりとした視界と思考で捉える。
女性の看護師さんが部屋に入ってきてこちらを見たと思ったら、私と目が合った瞬間に慌ててピッチを胸ポケットから取り出し、どこかへと連絡をする。
「目が覚めたんですね、ここは病院です。安心してくださいね」
連絡していた時の緊迫感は何処へやら。看護師さんは優しく笑みを浮かべて、声をかけてくれた。点滴袋を確認して私の手を取ると、手首に指先を優しく当てる。脈を確認しているんだろうか。
安心してくださいと言った笑顔が、緊張を隠すための嘘だと目に見えて分かってしまっていて、逆にそれが恐怖感を煽った。
されるがままになっていると、間もなく、複数の足音が忙しなく病室へ飛び込んできた。
「ミョウジさん、こんにちは。医師の大本です」
「こんにちは…」
自分がなぜ病院にいるのか分からず、その質問を直接投げかければ、今日に至るまでの経緯を丁寧に説明してくれた。
休日のスクランブル交差点に突っ込んできた車。20人程を巻き込む大きな事故。それに巻き込まれたんだと。病院に運ばれてきた時、私は顬からの出血が激しく、すぐに縫合処置。その後4日間目を覚まさなかった。
これまでの経緯を把握し、初めて自分の頭部に手を伸ばせば、自分の髪でも皮膚でもないザラついたガーゼと、上から保護するように被せられたネットを指先で撫でた。
そうか、事故にあったのか。
でも、どうして?
「あの、どうして私はそんなところに…?」
聞いた場所は普段の私では行かない場所だ。騒がしい所や所謂若い子たちが集まるようなところは友達とじゃないと行かない。それなのに休日に私がそこに行った理由が分からない。
「…え?」
その場にキン───と音がする緊張が走った。
どうしてそんな緊張感が走ったのか、理解できず困惑していると、廊下の方からバタバタと足音が聞こえて来た。
「ナマエ!!」
駆け込んできた男の子。オレンジ色の髪をふわりと揺らして、切れた息のままベッドに駆け寄ってくる。
「お前…ビビらせんなや……死んだかと思ったワ」
口角を歪めて、心から安心したように不器用な笑顔を向ける。私のより幾分か厚い皮の手で、私の手を取る。
「あの、河田さ」
「心配してくれてありがとうございます。あの、でも、ごめんなさい…誰ですか…?」
こんなにも心配してくれて、私の目が覚めたことを喜んでくれる人にこんなことを聞くのは躊躇われた。それでも私には彼が誰なのか分からなかった。
彼は、酷く絶望したような色を浮かべ黙ってしまった。
一瞬、先生が“河田”と呼んだ気がする。私の脳内友人データには“河田”の文字はない。
見たところ多分同じ年頃。
学校、友達、家族、自分。うん、大丈夫。ちゃんと覚えている。だけど、ドラマや架空の世界ではよく目にする光景。
まさか自分がと疑いながら先生の方に視線を移した。
「私、記憶喪失なんですか…?」
「……おそらく。今からいくつか質問をするから答えてもらえますか?」
いくつか質問を受けそれに答えていく。私の名前、血液型や生年月日、家族構成と学校名。先生の表情を見るに、おそらくその全てが事実と相違ないのだろう。
「じゃあ、最後に。彼は?」
示されたのはオレンジ色の髪の男の子。やはり分からない。彼と私は面識がないように思う。
静かに首を横に振る。男の子の身体がぐっと強ばるのが分かった。
「そうですか。…結論から言うと、記憶喪失です」
やはりそうなのか。自分の身に起こると思っていなかったことが起きた。物語の中だけだと思っていたのに。
「大きく記憶が欠損している訳ではありませんが、一部抜けているところがあります」
“一部”に彼は含まれているのだろうか。おそらく含まれているんだろう。
と、病室へ別の看護師さんが入ってきて先生が呼ばれる。そのまま別の患者さんのところへ行ってしまった。
「先程ご両親には連絡したので、もうすぐ到着すると思いますよ」
そう言って看護師さんたちも出ていってしまい、病室には彼と私の2人きり。
“記憶喪失”
静寂の病室でその事実が突如重くのしかかってきた。全部ではなく、どこからどこまでということも無く、ただ“一部”の記憶が抜けているという。自分が何を忘れてしまったのか分からない恐怖に、さっきまで冷静だった脳が嘘のように掻き回される。
すると、突然ぎゅっと前から包まれた。すんっ、と、鼻がその匂いを捉える。不思議と落ち着く匂い。
「ダイジョーブだから」
“ダイジョーブ”その響きに聞き覚えがあった。
あぁ、私はこの人のことを知っているんだ。
ダイジョーブダイジョーブと呟きながら、その後両親が病室へ駆け込んでくるまで私の背を撫でてくれた。
まるで自分に言い聞かせるように。
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