喜びはオレンジの香りを纏って手招きをする
三ツ谷隆はあまりにも簡単に優しい言葉を口にする。
「三ツ谷くんってみんなに優しいよね」
そうやって私が言えば、
「ミョウジさんにだけだよ」
と甘い言葉を吐く。
そんな三ツ谷くんとのやりとりを1年ほど続けて慣れ始めてしまった。
不覚にも日付と私の出席番号が被ってしまって日直になってしまった本日。陽が傾いてきた教室で、窓際の子の席を借り窓を開けて日誌を書いていると、ガタッと入り口の方から音がした。
「ミョウジさん、まだいたの?」
「あ、三ツ谷くん。日直だからねぇ。三ツ谷くんは部活?」
「まぁな」
人の良さそうな笑みを口元に浮かべながら教室に入ってくる三ツ谷くんは、不良という肩書きをものともしない“良い人”だ。
こちらに近づいてくると思いきや、ふいっと教室の前に行ってしまった。彼の行動を目で追っていれば、黒板の前に立って黒板消しで書かれた内容をするすると消していく。
「あ、ごめん!いいよ、私やるから!」
「いいよ。ミョウジさんじゃ上の方、届かないだろ」
馬鹿にするでもなく、ただ親切心だというのがわかってしまう。そうこうしている間に黒板を走っていた白チョークは姿を消した。
「ごめんね、ありがとう」
「いいって。俺がしたかっただけだから」
そう言いながら黒板消しを持ったまま、前方の窓際に近づいていく三ツ谷くん。窓を開けてぱふぱふとはたき始めた。それだけでサマになるなぁと思い見ていると、はたいた粉が風に乗って私の方の窓へ流れてきた。
「へっくし…っ!」
「あ、わりぃ!」
「大丈夫、っくし!」
走ってきた三ツ谷くんが慌てて窓を閉めてくれようと手を伸ばした。私越しに窓を閉める三ツ谷くんから、柔らかい柔軟剤の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。カーディガンが頬を掠めて、その全てが三ツ谷くんに抱きしめられているような感覚に陥る。
急激に上がる体温と心拍数に心が追いつかず、反射的に身体を逸らして逃げようとした。瞬間、窓から半身飛び出しかけた。
「あっぶねぇ!」
今まで聞いたことのない三ツ谷くんの怒号が聞こえたと思ったら、今度こそ三ツ谷くんの腕の中に収まってしまった。
「ご、ごめ…!」
離れようと三ツ谷くんの胸を押すと、逆らうようにより強く抱きしめられた。
「ミョウジさん、本当に危ねぇから。心臓止まるかと思った…勘弁して」
耳が当てられた三ツ谷くんの心臓から大きく音が鳴っている。本当に焦らせてしまった。
「ごめんね、もう大丈夫だから。びっくりしちゃっただけなの、ごめんね」
だから離して?そう言おうとした言葉は、こちらを上から覗き込んでいる三ツ谷くんと目があった瞬間に嚥下されてしまった。
「危なっかしいから離したくない」
「へ…」
意味が理解できず、ぽかんと時が止まった。
「そういうの、他の子にも言うの…?」
信じられない気持ちが先行して、可愛くない言葉が口から溢れた。そんな人間じゃないことはわかっているのに。
「…他の子に言ってもいいの?」
三ツ谷くんが少し意地悪く首を傾げる。今頃私の顔は真っ赤だろう。
「……やだ」
それだけ言ってあまりの恥ずかしさに顔を俯ける。
かーわい、と聞こえて顔を上げるとこの世の全てを慈しむような、蕩けた表情をした三ツ谷くんが私を見つめていた。
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