いとおしきひと
「松野さーん!」
がこん、と店のドアを押し開けて入店してきた元気な女の子。めっきり寒くなった最近の気温にロングコートを着込んで入店してきた彼女は、昨年の夏にふらっと入店してきた子だ。
「外から見たにゃんこが可愛かったんで入っちゃいました!」
初めてみるお客さん。店内に入ってきてへらりと笑ったその子は、外向きのショーウィンドウに入れられている猫と目線を合わせるようにしゃがんだ。彼女が指先をガラスの前でくるくると遊ばせると、猫がそれを追いかけている。その猫の様子を楽しそうに見つめる横顔が、心から楽しんでいるもので好感を持った。
「猫、好きなんすか?」
「好き!犬も好きです!」
夏の日差しがショーウィンドウの硝子を抜けて、キラキラと反射された中にいる彼女がひどく神聖で、無垢に輝いていた。
彼女が一駅行ったところが最寄りの大学生だということを知ったのは、季節がひとつ過ぎた頃だった。
店に足繁く通って会話をし、時にはお店の手伝いまでをしてくれる彼女に興味を持たないわけもなく、聞いてみれば大学生とのこと。
(大学生かぁ…)
そっと胸に芽生えていた気持ちに、水をやることをやめた。二十歳にもなっていない女の子に、三十路のおっさんがこんな感情を育てていいわけがない。
そんな俺の気持ちなんて知らずに、彼女は驚く程に懐き、好意を寄せてくれているのが目に見えてわかった。長く生きた勘というものは時にいらない情報を与えてくる。
それでも、その好意は純粋に嬉しく、自分が応えなければ良いだけだと、その立場に甘んじた。
「千冬ってあの子に甘いよな」
「……は?」
店仕舞いを終えてバックで荷物整理と次回発注の確認をしていると、不意に一虎くんからそんな言葉が飛び出した。
「…どういう意味っすか」
自分でもわかる。普段より低くなった声に、一虎くんの視線が少し鋭くなった。と、思ったらふっと瞼の力が緩みいつものくるりとした丸い目に変わった。
「まぁわかんねぇフリすんならそれでいいと思うけど?別にお前の恋愛に興味ねぇし。考えてることも分かるしな」
それだけ言って在庫確認を再開した一虎くんの頭頂部を眺める。年上の余裕か。恨めしく思いながら、少しだけ、ほんの少しだけ、その余裕をかっこいいと思った。
成長を止めようとしても日々膨らむ彼女への好意は、彼女にうまく隠せているんだろうか。
1桁間違えた発注書を訂正しながら、気を引き締め直した。
「松野さん、私今日誕生日なんです!」
「おー、おめでとう」
にこにこと今日も店に来た彼女は、ご機嫌な様子で誕生日であることを教えてくれた。
「じゃあなんか欲しいもんやんねぇとな」
先日の俺の誕生日にあれやこれやとくれた彼女にお返しをと提案すれば、「どうしよっかなぁ」と嬉しさを滲ませた顔で悩んでいる。
「お前の好きなもんでいいよ」
「私の好きなもの?じゃあ松野さんで!」
店内に響く元気な声で言い切った彼女に一瞬目を見開く。それも悟られまいと、表情を戻してぽんぽんとその小さな頭を撫でた。
「おーおー、ありがとな」
「真剣に取り合ってください!」
「三十路のおっさん揶揄うなよ」
彼女の横を通り過ぎようとすれば、エプロンをきゅっと掴まれた。
「からかってません。本気です」
知ってるよ。
喉元まででかかった言葉を既で嚥下する。
痛いほどに分かっている彼女の気持ちに、それでも応えることはできない。きっと、この歳で本気になったら手放せないのは俺の方だ。十以上も下の、しかも未成年の子に手を出してしまうほど、俺の大人としての理性も思考も腐ってないから。
店内には俺と彼女の二人で、先程バックから出てこようとした一虎くんは、俺と目が会った瞬間に様子を察してまたバックへと戻って行った。
ちらりとエプロンを掴んだ手を見れば、ぎゅうっと先程よりも力が籠っている。
振り返れば、俯けた彼女の表情は読めない。
「こっち向いて」
俺の言葉にふるふると首を横に振る。
「…こっち向け」
少し強い言葉にピクリと反応し、おずおずと顔を上げた。夕陽のせいだけではない、赤い頬と瞳が痛々しくその何十倍も愛おしい。
「お前は可愛いよ。若いうちにこんなおっさんに捕まんな」
「だから…!」
「聞け!」
俺の言葉に反論しようとする彼女を遮る。
体側にだらりと垂れていた手を彼女の頭に持っていき、丁寧にその形をなぞり撫でる。顎下で切り揃えられた髪に指を通して、ぱらぱらと指から離れていく様子を眺めた。
瞬きひとつ。
彼女と再度目を合わせれば、瞳いっぱいに溜めた涙を流さないよう、目に力を込めて耐えている。
「お前はこれからも色んな人に出会う。好きな人も出来るかもしれない。俺がその幅を狭める訳ることはしちゃだめなんだよ」
彼女に伝えるように、その実自分に言い聞かせている言葉たち。
ひとつ呼吸を置いた。心臓がいつもの何倍にも充血している気がする。
「俺はお前を自分のもんにしたら、手放してやれる自信はない」
俺の言葉にみるみる内に、目を開いていく。
「来年の今日、手放されない覚悟ができたら俺の手をとって」
ぽろりと彼女の頬を涙が滑った。
強く抱き締めたい衝動を抑え込んで、またその頭をゆっくりと撫でる。頬を流れる涙を親指で拭った。
「言いましたからね…来年、踏みにじったら一生恨んでやる」
ぼろぼろと涙を流しながら、強気な発言をする彼女に笑いが漏れた。
「楽しみだな」
まだもう少しだけ、大人の余裕という名の皮を被らせていてほしいと願いながら、来年の今頃にはきっともう被れないんだろうと自嘲した。
西日の中、俺の心の声を肯定するように、黒猫がにゃあとひとつ鳴いた。
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