うるむのは君のせい
がこん、と自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃ…またお前か」
やや呆れたように腰に手を当ててこちらを見る松野さんは、今日もかっこいい。
「また私です!」
覚えられていることが嬉しくて元気いっぱいに答えれば、再度呆れたように溜息ひとつ。
暇ならケース拭いといてと窓拭きタオルを渡された。鞄をレジ裏に置かせてもらって、ショーケースを拭きに売り場に出る。
お昼3時から夕方5時までの間に何人かのお客さんが来た。そのお客さんたちに皆を紹介する松野さんを、ふれあいスペースにいる子たちと戯れながら見ていた。
「…ちふゆさん」
本人にはできない呼び方。私がここに来る理由なんて簡単で、この愛くるしい子たちを愛でることよりも、笑顔で接客をしている黒髪の青年と少しでも同じ時間を共有したいからだ。
ツーブロックに整えられた髪型とそこから覗く形のいい耳。今年三十路には見えない童顔。それでも彼が真面目な学生時代を送ってこなかったであろうことは、固くつぶれた拳でわかる。いつも通りじっと見つめていて、はたと気づいた。
あれ、左耳…ピアス穴?
少し位置を移動して右耳も確認すれば、そちらに穴はなかった。
なんだったか、左耳には確か“守る人”という意味があったはずだ。右耳は“守られる人”。左耳にだけ穴が空いているということは、つまりそういうことなんだろうか。
松野千冬には守るべき人がいる。という仮定が成り立つ。
あぁ、まぁ、かっこいいし。三十路だし。いても全くおかしくない。
ひくひくと落ち着かない心臓に、意味もなく胸元の布を握りしめた。
「大丈夫か?」
伏せた頭部の上から聞き慣れた声が聞こえ、顔を上げれば、覗き込むように松野さんがこちらを見ている。
思わず上げそうになった悲鳴を、なんとか飲み込んだ。
「だ、大丈夫です…!」
「体調悪いならバック下がるか?」
「いやいやいや、ほんと大丈夫です!」
バック下がるか、なんて。従業員でもない私が入ってもいいのかもわからない。
「もうちょっとで店閉めるからちょっと待ってろ」
それだけ言い残して、松野さんは本日最後のお客さんの元へと向かった。
駆けていくエプロンの後ろ姿も好きだなぁと眺めているあたり、もうどうしようもないなと、また心臓を服の上から握りしめた。
叶う見込みのない恋はしんどいよ、優しくしないで。
誰に対しても分け隔てなく優しい松野さんには、私に対する特別な感情なんてないんだろう。
最後のお客さんが帰ったところで私もお店を出ようと荷物を持てば、松野さんに肩を押されてレジの椅子に着席させられた。
「え、?」
「店仕舞いしたら送ってくから座ってて」
予想外の展開。
お店の外の掃除を終えた羽宮さんが店内に帰ってくると、松野さんが声をかけた。
「一虎くん。俺この子家まで送ってくんであと頼んでいいっすか?」
「お〜。明日の昼飯奢りな」
「給料下げますよ」
「なんでだよ!」
目の前で当たり前のように繰り広げられるやり取り。当人であるはずの私は置いてけぼりだ。
「ほら、行くぞ」
椅子から立ち上がらせるように手を引かれ、状況把握もままならない状態で、松野さんに連れられて裏口から外へ出た。
ひやりとした空気が頬を包んでつん、一瞬にして鼻を赤く染め上げた。
「あの、私一人で帰れますよ…!」
「うるせー病人。さっき苦しそうにしてただろ」
あなたのせいです。
言えるわけもなく喉に張り付く言葉。
ゆっくりと私に合わせるように歩く松野さん。ちらりと右隣を見上げると、そこにはやっぱりピアス穴があって。また胸がぎゅっと引き絞られる感覚に襲われた。
「どうした?やっぱしんどい?」
様子を伺うように屈んでくれる松野さんに、またひとつ想いが募る。
「…松野さん、彼女いるでしょ」
敢えて断定で聞いたのは、いると聞いた時の衝撃を和らげるためだなんて。
「いねぇけど…誰情報?」
一瞬聞き間違いかと思って顔を上げれば、訝しげにこちらを見る松野さんと目があった。表情を見るに、恐らくこれは嘘ではないんだろう。
「いや、あの、左耳…」
「耳?」
自分の耳を触る松野さんに、あうあうと口を開閉させる。
「左耳、ピアス穴あったから…」
「ピアス?あぁ、チューボーん時に開けたやつか。それと俺に彼女がいるってなんか関係あんの?」
キョトンと首を傾げる松野さんに、ピアスの付ける位置とか開ける穴の数で意味があることを説明すると、「お前よく知ってんな」と感心された。
なるほど、これは意味なくただかっこいいからという理由で開けたタイプか。
考え込んで悩んで勝手に失恋した気になっていた自分がだんだんと恥ずかしくなってきた。
「なに、もしかしてそれで落ち込んでたん?」
にやりとイタズラに口角を上げた松野さんが、街灯に照らされていつもより艶めいて見えた。
彼の耳が赤かったのは、気温が低いせいだろうか。
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