甘んじる曖昧
通い妻の如く足繁く通うペットショップに今日も顔を出す。
日が傾いて客足もぴたりと止んだ瞬間に松野さんが声をかけてきた。
「お前明日学校?」
ぱちりと瞬き。ぶんぶんと頭を振って否定する。
「休みです!」
「バイトは?」
「夕方からです!」
「よし」
昔、小学校の頃朝の出席をとる時に名前を呼ばれ「はい、元気です!」が本当に元気すぎて笑われていた時と同じ、ハイパワーでの返答を繰り返せば、松野さんは何かを納得したよう。
「嫌いなもんは?」
「なんでも食べます!…うそ!トマトが嫌いです!」
「なんで嘘ついたんだよ」
お前ならマジでなんでも食いそう。
くしゃりと寄せた眉根の皺に愛。
「酒は…飲めねぇな」
「う゛…そうですね、まだ法律的に…」
ところで先程から何の話だろう。
「飯食いに行くか」
「……いいんですか!?」
この世に生を受けて一番大きな声が出たと思う。
うるせぇ、とひとつ、額にチョップをくらった。額を擦りながらデレきっているであろう顔で、松野さんを見上げる。
「……あ!?」
「ん?どうした」
わんこのケージの清掃をしながらこちらに視線をやる松野さん。
いやだ、信じたくない…だがしかしバックレるわけにもいかない。
「私今日、バイト遅番でした……」
きょとんと目を開く松野さんに、申し訳なさと自分自身の運のなさを恨んだ。
ふむ、と松野さんは視線を斜め下に落として、何やら思案している様子。
「何時まで?」
「えっと、22時までです……」
「あー、じゃあ店は閉まってるか」
あぁ、本当にどうして今日バイトなのか。折角松野さんが誘ってくれたのに。もうやだ泣きそう。
俯きしょげていると、バチンッと比較的可愛くない音がして額に衝撃が走った。
「痛ァ!?」
「あ、わり。思ったより強くなった」
半笑いで謝られても困る。今日は額が災難な日だ。
「お前が嫌じゃなければ、うち来るか?」
うち、来るか……?
松野さんの言葉の意味を解釈するのに、一瞬間が空いた。
「え、むしろ、いいんですか……?」
「おぉ、バイト終わったら迎えに行く」
以前バイトに遅れそうになっていたところを松野さんが送ってくれたことがあったなぁと思い出す。
「行きます!」
ビシッと伸ばされた手に、今日の気合い全てを込めた。
「お願いしまーす」
「いらっしゃいませ、大変お待たせしまし、たああああ!?」
あれから数時間バイトをこなしていれば、退勤間近に見知った黒髪のイケメンがレジに来た。
カゴにはお菓子とジュースとお酒。いくつかのお惣菜や出来合いの物も入っている。あとするめ。
黒髪のイケメンこと松野さんは私の驚愕の表情に笑っている。
「ほら、早く打てよ」
「は、はひっ」
緊張で震える手で商品を手に取り、バーコードを通してお渡し用のカゴへ。いつもなら瞬時に終わる作業も、カタカタと震える指先では上手くいかない。
「緊張しすぎ。さっきもっと早かったろ」
笑いを噛み殺して言う松野さんをキッと睨んだ。
「松野さんに見られてて平気なわけないじゃないですか!」
好きなんだから。
にやにやと笑う松野さんをレジから見送り、時計を確認した。退勤まであと15分。
「まーつのさーん!」
今日一日機嫌良くバイトをこなしていたからか、帰り際に沢山貰った惣菜類を片手に、駐輪場まで走っていく。
「おー、おつかれ」
バイクに凭れていた松野さんが手を挙げた。
久しぶりに乗る松野さんの後ろは、やっぱり変わらず緊張する。私が怖がらないようにスピードを出し過ぎない松野さんの優しさが暖かくて、もっと大好きになる。
松野さんの家でご飯を食べて、お酒を飲む松野さんを見ながら私は松野さんが用意してくれたジュースを啜った。
帰りに渡された唐揚げをトースターで温め直し、チーンッの音で飛んでいけば松野さんに爆笑された。
何時間経ったんだろうか。時計の針は天辺を超えていて、松野さんの目もとろん、と垂れ下がっている。
「松野さん眠いです?寝ます?」
下から覗き込めば、焦点があっていない視線がちらりとこちらを見た。瞬間、ゆっくりと松野さんの顔が近づいてくる。
これは、キスだ。
それなりに恋愛経験があればそういう雰囲気は何となくわかる。それでも、いまのこの展開に頭がついていかず身体も言うことをきかない。今息をすれば確実に相手にその息が触れる距離。どうにもできず、ただぎゅっと目を瞑った。
数秒。気配がまたゆっくりと離れていった。
「ばーか。しねェよ」
付き合ってねェ女とそういうことする趣味はない。
舌っ足らずにそう言いきった松野さん。
「こっちだってなけなしの理性でお前との距離保ってんだからお前ももっと気ィ使えよ」
「は、はい」
いつものハイパワーは何処へやら。なんとか声を絞り出せているような状況。
「なぁ、」
お酒でいつもより掠れた声。
「好きって言って…?」
とろりと緩んだ目でそんなこと言わないでほしい。私の気持ちなんて知ってるくせに。それでも今は受け取れないって、自分は大人だからって区別したくせに。
それでも好きな人に強請られれば私に勝ち目なんてなくて、呆気なく口を開いた。
明日起きたら後悔するんだろうなぁと頭の片隅では思うものの、理性を潰す欲が彼女のおでこに口付けを落とした。
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