いつくしみの美学

 ゆらゆらと揺蕩っていた意識が浮上していく。
 はじめに感じたものは、肌をつたう僅かな振動だった。低く唸るような音と、ひかえめに発せられる声が鼓膜を揺らす。気を抜けばすぐに沈んでしまいそうな微睡みの中、重いまぶたを持ち上げた先には、薄明の空と見覚えのある後頭部がふたつ。
 横たわっていた身体をゆっくりと起こす。どちらかが掛けてくれたのだろう、肌触りのよいブランケットがずり落ちていった。

「起きたか」

 朦朧としたまま周囲を確認していると、ハンドルを握った慶ちゃんとミラー越しに目が合った。同時に、助手席に座っている亜貴ちゃんがこちらを振り返り、ため息を吐く。

「はしゃぎ過ぎて疲れたんでしょ」
「……うん」
「まだ眠そうだな」
「ううん、大丈夫」
「どっち」
「起きてるよ」

 頭がまわらない。まばたきを繰り返しながらブランケットを拾い上げ、眠りにつく以前の記憶を辿っていく。
 今朝は早くから集まって、代わる代わる運転をしながら南房総の方へ車を走らせたのだ。亜貴ちゃんが覗いてみたいと言っていたテーラー、慶ちゃんが気になると言っていたミルクグルメ、向かう途中で通ったフラワーライン、展望台から見た水平線。
 ひと通りまわって旅館へと向かう道すがら、二人と会話をしているうちに意識が遠退き、暗転。

「ほら、水」
「ありがとう、亜貴ちゃん」

 折りたたんだブランケットをひざの上に乗せ、差し出された飲料水を受け取る。蓋を開けてひと口含むと、乾いた喉を通り抜ける冷水が心地良かった。
 背もたれにあたまを預け、流れていく街並みをぼんやりと見送る。楽しかったなあ。

 なにごともなく旅館に到着し(三人の中で慶ちゃんの運転がいちばん安定していた)、大浴場で温泉に浸かって疲れを癒したあと、湯上がり処で足裏マッサージを受けたりコーヒー牛乳を飲んだりと一頻り満喫してから部屋へと戻った。
 広々とした和室の先──イスとテーブルが設置された広縁に、浴衣姿の亜貴ちゃんがスケッチブックに何かを描きながら座っている。こちらを振り返る亜貴ちゃんを見て、絵になるなあと思いつつ、向かい側のイスを引いて腰かけた。

「たのしかったね、今日」
「その割には元気ないみたいだけど」

 目を薄くして睨まれる。逃げるように窓の外へ視線を移すと、宵の色に染まった海原が月明かりに照らされてひそやかに揺れていた。

「ねえ、何で今さら進路変更なんか考えたわけ」
「……それ聞いちゃう?」

 唐突に投げかけられた言葉に目を瞬かせる。こういうものは普通、本人が切り出すまで触れないものなのでは──と思ったものの、まあいいかと考え直す。
 なんと言おうか悩んで、反抗期なのだと告げると、亜貴ちゃんは「はあ?」と顔をしかめ、それから盛大にため息を吐いた。

「元々考えてたんだよ、このままでいいのかなって」
「……それが理由?」
「うん、そう」

 慶ちゃんが露天風呂から上がってきてまもなく、仲居さんが部屋を訪れ、夕食の準備がはじまった。
 旬の素材を使った料理に舌鼓を打ち、食後には少し遅れてしまったけれど、亜貴ちゃんの誕生日ケーキと用意していたプレゼントを手渡す。なまえにしてはセンスいいんじゃない、と照れ隠しのようにそう言った亜貴ちゃんを見て、うれしくなったりもした。
 それからしばらく話をしているうちに亜貴ちゃんの口数が減り、慶ちゃんが舟を漕ぎはじめる。二人の背中を押して寝室へ向かいながら、幼い頃の記憶を重ね、ひっそりと笑った。

(本当に、たのしかった)

 慣れない道の運転にむずかしい表情をしていた亜貴ちゃんの横顔。たわいもない話の中で肩を震わせた慶ちゃんの笑顔。砂浜を歩き、振り返ったときに見た三人の足跡。どれもこれもいとしくて、自然と笑みがこぼれる。
 今度はいつ、三人で旅行ができるだろう。そもそも、また一緒に行ってくれるだろうか。
 ──そこまで考えて、らしくもないと首を振る。心地のよい風が頬を撫ぜていく。手すりに身を預けて夜空を見上げると、都心では見ることのできない満天の星空が広がっていた。

「なまえ?」

 肩がはねる。振り返った先には、普段よりもまぶたを落とした慶ちゃんが立っていて、歩み寄ってくるなり、風邪を引くと言って半纏を羽織らされた。お礼を言って身にまとい、あたたかいと思うと同時に、自分の身体が思いのほか冷えていることに気づく。

「眠れないのか?」
「車で寝たからかも」
「そっか」

 隣に並んだ慶ちゃんが手すりに手をつく。眠らないのかと問えば、目が冴えたからと返される。
 二人で目の前に広がる海原へ視線を向ける。波の音だけがひびく静かな夜だった。取り留めのない会話をしながら、くるりとつま先を回す。話題が尽きることはなく、いつまでもこうして話していられそうな気がした。

「わたしが体調崩して合宿に参加できなかったときのこと、覚えてる?」
「館山の合宿だろ」
「お見舞いに来てくれた二人が渡してくれたおみやげのことも?」
「貝殻。海の音がするって喜んでた」
「さすが」

 慶ちゃんが懐かしむように目を細めて笑った。
 幼稚舎に通っていた頃の話だ。当時のわたしは、ちょっとした気温の変化で体調を崩してしまうような子どもだった。学校行事に参加できないことも一度や二度ではなく、仕方がないと聞き分けの良いふりをしながらも、ひっそりと落ち込んで泣いていた。
 慶ちゃんと亜貴ちゃんと、海に行きたかった。
 貝殻の採集も、海に住む生き物の観察も、砂山で遊ぶことだって、ずっとずっと楽しみにしていた。今日はおやすみしましょうという母の言葉にうなずいて、誰もいなくなった自室で泣きじゃくっていたことを、よく覚えている。
 そんなときだ。二人が来てくれたのは。学校のプリント類と共に、彼らは向こうの砂浜で見つけたのだという、真っ白な貝殻を手渡してくれた。

「今度は一緒に行こうって言ってくれて、すごくうれしかったんだよ」
「だから海に行きたがってたのか」
「そう、十年ぶりのリベンジ」
「じゃあ、日の出も見に行くか」
「え?」
「早く起きることになるけど、すこし寝て、それから」
「三人で?」
「三人で」

 繰り返してくれた慶ちゃんに、頬がゆるむ。あの日と同じ、柔らかくてやさしい眼差し。あたたかくて、少しだけくすぐったい。

「亜貴ちゃん、起きてくれるかな」
「なまえの寝起きの方が心配だけどな」
「返す言葉もありません」

 そうと決まれば部屋に戻ろうと促される。
 踵を返す背中についていく前に一度だけうしろを振り返り、目の前に広がる景色を忘れないよう、しっかりと目に焼き付けた。