さいきょうの恋人

 思えばずっと、夜久さんの背中ばかり見つめていたような気がする。周りよりも少しだけ小柄な背中は、けれども決して弱々しいものではなく、ユニフォームを着ていても分かるほどしっかりと筋肉がついていた。
 どんなボールが来ても、夜久さんなら上げてくれる。そう思えるのは、夜久さんが努力を惜しまない人だからだ。

「おいリエーフ! そっちにボール行くの見えてただろ、反応遅ぇ!」
「見えてたけどなんかズレました!」
「分かってんなら合わせろ!」

 けれど、こんなふうに想えるようになったのは、入部してからずっと後のことだった。



「えっ、スズさんも遠征行かないんですか!?」
「うん。家の用事と被ったから行けないんだ」

 ぱ、と表情を明るくさせた灰羽くんに、犬の耳としっぽの幻覚が見える。はち切れんばかりにしっぽを振る姿が昔飼っていた子にそっくりで、つい笑みがこぼれてしまった。
 一緒にがんばろうと声を掛けて乱れた前髪を整えてあげる。今年の一年生は皆人懐っこいけれど、灰羽くんは特に顔を合わせる機会が多かったからか、選手でもないわたしのことを随分と慕ってくれているように思う。

「スズ、あんまリエーフのこと甘やかすなよー」
「黒尾さんには甘やかしてるように見えますか」
「やっくんにもそう見えてるかもよ」
「……気を付けます」

 練習が終わり、掃除を済ませたあと、ジャージから制服へ着替える。更衣室を出ると、夜久さんが壁に寄りかかるようにして立っていた。ほかの皆はもう帰ったらしい。わたしの存在に気が付いて顔を上げた夜久さんが、携帯をぱたりと閉じてこちらに歩み寄ってくる。

「お待たせしました」
「ん、帰ろうぜ」
「はい」

 校舎を出ると冷たい風が通り抜けていった。春とはいえ、陽が沈んでからは未だ肌寒い。肩をすくめて夜久さんを見れば、同じく身体を縮こめて暖を取るように肘を抱いていた。それから、ごく自然に差し出された手のひらと夜久さんを交互に見つめる。

「繋ぎたくねぇ?」

 首を傾げる夜久さんを見て、あわててその手のひらに自分の手を重ねる。身長はわたしの方が高いのに、手のひらは夜久さんの方が大きいし骨ばっている。男のひとの手だ。この手がいつもボールを繋いでくれている。
 しっかりとその手を握り返せば、夜久さんは満足したように表情を和らげて歩き出した。

 数学の小テストが意外と簡単でほっとしたとか、この間食べた購買の新作パンがおいしかったとか。とりとめのない話にこんこんと相づちを打っていると、不意に、繋いだままの手の甲をついと撫でられた。かと思えば、指を絡めるようにして繋ぎ直される。
 驚きのあまり固まっていると、繋いだ手が夜久さんの制服のポケットにすっぽりと飲み込まれてしまった。

「冷たいな」
「夜久さんはあったかいですね」
「だろ」

 得意気に笑う夜久さんを見て、からだの内側にぽっと熱が灯る。夜久さんの体温が高いのか、わたしの体温が上がっているのか。そんなことさえもわからないまま、ただぼんやりと心地の良いぬくもりに包まれていた。