帝国学園
『こんにちは』
『お久しぶりです』
入力欄に並ぶ文字はどれも決定打に欠けていて、送信するにはどこか落ち着きが悪かった。スタンプでは軽すぎるし、挨拶だけでは距離が遠い。その判断を繰り返すうちに三十分が過ぎ、画面は何度も白に戻された。
やがて諦めたように、ベッドへ身を倒す。
サッカーであれば、次に何をするべきかは迷わずに見える。相手の動きも、味方の立ち位置も、自然と頭の中に描ける。それなのに、他人との関係の構築については判断基準が見当たらなかった。距離の測り方も、踏み出すタイミングも分からない。もし分かっていたなら、これまでチームに馴染めなかった理由を考える必要もなかっただろう。
今日はやめて、明日にしよう。
そう思った直後、静かな部屋に着信音が響いた。表示された名前を見た瞬間、ハルは反射的に起き上がる。
「もしもし」
『なまえです、……ハル?』
○
準決勝の対戦相手は帝国学園だった。
ベンチに視線を向ければ、少年監督――不破アリスが静かにフィールドを見渡している。笹波くんと同じく、徹底したデータ分析を基盤に戦術を組み立てるタイプだと聞いていたが、その精度は想像以上で、南雲原の選手配置や癖は、ほとんど把握されているようだった。
帝国は試合の流れに応じて陣形を細かく切り替え、その判断も迷いがない。南雲原も指示に従ってフォーメーションを変え、空宮や品乃が間に立って連携を保とうとするが、相手の一手は常に半拍早く、形成逆転に至る決定打を打てずにいた。
互いにボールを保持している時間はそれほど変わらない。それでも、主導権は少しずつ帝国に傾いていく。
後半が始まってから、その傾向はより顕著なものへなった。
帝国の選手たちはまるで合図があったかのように、亀雄くんの動線を重点的に潰し始めた。ビルドアップの起点としてボールを受けた瞬間を狙い、複数人で一気に距離を詰める。亀雄くんは懸命に体を入れ替え、パスコースを探すが、次の瞬間には足元のボールをさらわれていた。
同じ場面が何度か続くうちに、亀雄くんの判断がわずかに遅れ始める。木曽路が声を張ってフォローに入るが、その声も次第に届かなくなり、周囲の動きまで噛み合わなくなっていった。パスを出す側が迷えば、受け手も一歩遅れる。南雲原全体のリズムが、静かに狂わされていく。
追い打ちをかけるように、柳生がボールを止めに入った場面でファウルを取られた。タックル自体は無理のあるものではなかったが、笛が鳴った瞬間、観客席から大きなブーイングが起こる。
帝国の選手たちは、その空気を見逃さない。すれ違いざまに投げられる言葉は声量こそ抑えられているものの、確実に相手の神経を逆撫でする内容で、二人の耳に届いていることは少し離れた位置にいるわたしにも分かった。
「柳生、大丈夫だよ」
「……」
守備ラインに戻りながら、一度深く息を吸った。全体のペースが乱れ、視界が狭くなっていくような感覚がある。個々の技量では拮抗しているはずなのに、試合の中で選択肢を奪われ続けるとこんなにも苦しい。
ゴール前で構える四川堂くんの存在が、いつもより遠く感じられた。
このままでは、帝国にとって都合のいい形で試合が進んでしまう。きっと誰もがそう理解していながら、今はまだ、流れを断ち切る一手が見えずにいた。
各々の呼吸が少しずつ浅くなる。それでも試合は止まらず、時間だけが容赦なく進んでいった。
帝国が右サイドから一気に押し上げたのは、南雲原の陣形がわずかに間延びした瞬間だった。中盤で奪ったボールを迷いなく縦へ通し、前線の選手が走り込むと同時に、後方からもう一枚が重なる。
数的有利が生まれる前に、帝国の選手は躊躇なく足を振り抜いた。
「来たぞ、帝国学園の強烈な一撃だ!」
「南雲原、ここは正念場ですね。GK四川堂、反応できるか」
放たれたシュートは、単なる威力だけでは語れない軌道を描いていた。低く、重く、そして途中でわずかに進路を変えながら、ゴール中央へと迫ってくる。名前もかたちも変わっているが、既視感を覚える攻撃に、場違いとは思いつつも嬉しくなる。
四川堂くんが重心を落とし、正面で受け止める構えに入った。
「──なまえさん!?」
「四川堂くん、頑張るけど、失敗した時はフォローお願いするね」
「空けろ!」
空宮と品乃の二人が状況を説明するより早く動き、自然な流れで中央の進路から外れ、相手DFを引き連れながら左右へ散る。その動きに合わせ、桜咲と来夏も一拍遅れてラインを下げる。正面に余計な影が入らないよう調整してくれたのだろう。
「おっと、南雲原のFWが下がった! これは守備の判断か?」
シュートはなおも勢いを保ったまま迫ってくる。
ボールの回転を見極めながら、踏み出す足を一歩分だけ前に出した。DFとしての位置取りでありながら、その感覚はかつて前線でボールを迎えにいっていた頃のものに近い。
背後で四川堂くんが息を詰める気配が伝わってくる。それでも止まる気はなかった。ここで受けるのは、ゴールを守るためだけじゃない。
「まさか……カウン――」
角間が言い切る前に、ボールはすでに間合いへと踏み込んでいた。
正面から受けるという選択は無謀にも見えただろうが、相手の踏み込みと足の振り抜きが早すぎた以上、回避よりも遮断を選ぶしかなかった。
足裏で止める距離ではない。体ごと角度を合わせ、インパクトの瞬間に軸足を捻る。衝撃は想像以上に重く、脛から腰へと鈍い痛みが抜けたが、ボールの勢いは確かに殺され、進行方向がわずかに上へと跳ねた。
「────!」
歓声とも悲鳴ともつかない声が、スタンドのあちこちから漏れる。完全に抑え切れたわけではない。だが、ゴールに一直線だった軌道は崩れ、ボールはペナルティエリア手前に返っていく。
その瞬間、帝国の選手たちの足が一拍遅れる。四川堂くんが弾くか、ゴールに突き刺さるか、その二択しかなかったのだろう。DFが正面で触り、なおかつ前へ残すという発想は、彼らのデータには存在していなかったはずだ。
「亀雄!」
木曽路の声が飛ぶより早く、亀雄くんは前に出ていた。先ほどまでの躊躇いは消え、ボールの落下点を見定める目に迷いがない。身体を寄せてきた帝国の選手よりも先に懐へ収め、半身の姿勢から次の一歩へ移る。
観客席のざわめきが、質を変える。南雲原の動きが、確実に前を向いたことが伝わったのだろう。来夏が一気に駆け上がり、桜咲が外へ開いてコースを作る。
空宮は視線だけで合図を送り、品乃は逆サイドの帝国DFを引きつけるように位置をずらした。誰か一人が突出するのではなく、それぞれが自分の役割を理解したまま、同時に動いている。
「南雲原、ここで反撃に出るか!」
亀雄くんの足取りは軽く、ボールとの距離も安定している。先ほどまで集中砲火を浴びていたとは思えないほど、動きに芯が通っていた。
「無茶するね、なまえさん」
「今日はちょっとだけね」
「笹波くんは怒っているみたいだけど」
「見てない、見ない……」
再び前を見ると、帝国の陣形はすでに崩れ始めていた。攻撃を完遂するつもりで高く上げたラインが、そのまま裏目に出ている。今の一瞬で試合の呼吸が確かに切り替わった。
不破アリスの視線がこちらに向く。その表情に浮かんでいたのは計算通りの冷静さではなく、理解が一拍遅れたとき特有の空白だった。
その空白を埋めるように南雲原は前へ進む。この一本で決まらなくてもいい。今はただ、止まっていた時間をもう一度動かせればそれでいい。そう思いながら、ラインを押し上げて次の局面に備えた。