円堂ハル
本編+3年
ハルの日々は落ち着きがない。
国外での挑戦が始まってからは尚さらだ。時差のある場所で営まれる生活は、わたしの一日と重なりにくい。朝に送ったメッセージが返ってくるのは夜更けだったり、逆に、眠りにつく前の言葉が朝に届いたりする。
待っているあいだ、わたしの生活はほとんど形を変えない。それでも、画面越しに知るハルの時間だけが少しずつ前へ進んでいく。どう考えても距離は増えているはずなのに、ハルは変わらず会いに来る。無理をしなくていいと言っても、その点だけは譲らなかった。
「愛想つかされたくないだけですよ」
冗談めかした言い方だったけれど、視線はわずかに逸れた。体格は引き締まり、背丈も伸びた。それでも、知っている輪郭は残っている。変わった部分より、変わらないところの方が先に目に入った。
○
「──くん」
予備校から駅へ向かう途中のことだった。流れに逆らう理由もなく、人の動きに合わせて歩いていると、改札前の広場から名前が聞こえた。足取りが自然と緩む。
人混みの向こう側で、帽子を深く被ったハルが立っていた。隣には見覚えのある顔がある。中学時代、同じチームでプレーしていたMFの子だ。ハルのことを推しだと言って、気負いなく「ハルくん」と呼んでいた記憶がある。
彼女は手振りを交えながら話していて、ハルはそれを受け止めるように何度かうなずき、短く笑った。試合中の張りつめた表情とも、わたしの前で見せる穏やかさとも違う。少しだけ──昔に近い表情だった。
その日の夜、久しぶりに昔のことを思い出した。ハルと出会ったのは、わたしがまだ『先輩』だった頃。何かを教えた記憶はほとんどない。ただ、名前より先に立場が与えられていた。
それは上下関係というより、距離を保つための線だったのだと思う。踏み込まれない代わりに、崩れることもない位置。けれど、ハルはわたしが彼の先輩ではなくなってからも、呼び方を変えようとしなかった。
「蓮のことは蓮さんって呼ぶのに」
「八つ当たりですか」
「事実を言っただけ」
通話口の向こうで、短く息を整える音がした。ため息にするほど強くはない。言葉を選ぶための間だった。
「呼び方を変えたからって、関係が変わるタイプじゃないと思いますけど」
「それはそうなんだけど」
「何が引っかかって……いえ、俺を巻き込むのはやめてください」
これ以上は当人同士の問題だと告げられて通話が切れた。距離の取り方が上手な後輩である。
感情的になっているつもりはない。変わったのはハルだけではないし、戻れないことも理解している。ただ、理屈に収まらない違和感が残っていた。それは言葉にしようとすると形を失い、眠りに落ちる直前の静けさの中でだけ、ぼんやりと輪郭を持つ。
『いま、駅です』
数日後、ハルは予告もなく帰ってきた。短いメッセージには理由も滞在時間も書かれていない。急いで来たのだろうと想像しながら、鍋の火を落とす。
インターホンが鳴って画面に映ったハルは、以前よりやつれているように見えた。
「急にすみません」
「ううん、いいよ。お疲れさま」
玄関で靴を脱いだあと、ハルは一度だけ動きを止めた。ほんの一拍、考え事をするみたいに視線を落としてから何事もなかったように顔を上げる。
部屋に入るとソファに腰を下ろし、背もたれに体を預ける。深く座る癖はなかったはずなのに、その日は珍しく肩まで沈んでいた。
「ハル?」
話している途中で、まばたきの間が少しだけ長くなる。言葉の切れ目に意識が滑り落ちそうになるのを、首を振って引き戻すような仕草もあった。疲れている、と口にするほどではない。ただ、起きているために余計な力を使っている感じがした。
「無理してる?」
「してませんよ」
「してる顔」
振り返ると、ハルは諦めたように口を開く。
「先輩に、会いたかったから」
「無理したの?」
返事はない。代わりに息を吐き、体を起こそうとして途中で止まる。肩が前に落ちた。
「……ちょっとだけ」
隣に座ると、クッションが静かに沈む。その反動で肩が触れたが、距離を取る様子はなかった。
「横になる?」
「寝ろって言ってますか?」
「うん。あ、膝使う?」
「……え」
意味が追いついたのか、ハルが小さく息を吸う。
「嫌ならいいけど」
「嫌とは言ってません」
視線が泳いで、わたしの膝ではなく壁のほうを見る。耳のあたりがわずかに赤い。あからさまに拒まない代わりに、同意も口にしない。その曖昧さが今のハルらしかった。
「じゃあ、どうする?」
「……先輩がそうしたいなら」
許可を出した体裁を保とうとした言い方だった。太ももを軽く叩く。促すというより、ここにあると示すだけの動作。少し間を置いてから、ハルは慎重に体を動かした。完全に体重を預ける前に一度こちらの顔を見て、すぐに視線を逸らす。そのままそっと頭を下ろした。
重みは想像していたよりも軽い。ハルのやわらかい髪の感触が布越しにはっきりと伝わってきた。
「あんまり見ないでください」
「見てないよ」
「絶対見てますよね」
「ハル、かわいいね」
目元にかかった髪を指で払ってやる。まつ毛の影が頬に落ち、呼吸に合わせて揺れていた。
「先輩は、会いたくなかったですか」
「ハルに? ……いまは少し会いたくなかったかも」
ぱちりと目がひらく。予想外の音を聞いたような反応だった。一度、二度とまばたきを繰り返し、状況を確かめるように視線が揺れる。
「いま、って」
低い声だった。身体は動かさずに、首だけをこちらへ向けた。
「ハルの顔を見ると、考えることが増えるから」
「嫌だったわけじゃないですよね」
「たぶん逆」
「逆?」
「会うと遠くに行ったんだなって、考えなくて良いことまで考え始めちゃうんだよね」
言葉にするとずいぶん静かな内容だった。責める意図も、訴える響きもない。ただ、そこにある感覚を並べただけ。
ハルの時間には、わたしの知らない出来事が積み重なっている。言語も景色も違う場所で過ぎていく日々。その中にわたしはいない。一方で、わたしの生活は穏やかで変化が少ない。そのぶん、内側に沈む余白が生まれる。口にしなかった思考やしまい込んだ感情が、静かな時間に浮かび上がる。
ハルは、それを知らない。知らないままでいることが、不安だったのかもしれない。自分ばかりが多く持ち、与えられていない側にいるような感覚。
「先輩」
名前を呼ぶ声は甘える調子でも、距離を測る響きでもない。
「俺は、来てよかったと思ってます」
伸びてきた手が頬に触れる。膝に預けていた頭がわずかに動き、距離が縮まる。息は触れないのに、存在だけが近づいた。
「俺、先輩が何考えてるか、分からなくなるときがあるんです」
「うん」
「それで、勝手に……自分ばっかり好きなんじゃないかって」
言葉は少しずつ勢いを失って、ぷつりと途切れた。
「それはたぶん、お互い様だよ」
「そうですか?」
「もしかして疑ってる?」
頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。近づいて唇を触れさせると、ハルの指先が一瞬迷い、それから力を込めた。引き寄せるほどではない。離さないための強さだった。
感触を確かめるだけのキスを重ねる。先へ進まない選択が今は自然だった。唇が離れると、ハルがもう一度、確かめるように触れてくる。
やがて体を起こし、膝から重みが消える。遅れて体温も離れていった。
「うれしいです」
こんな顔を見せてくれるなら、もっと早くに言葉を交わしておくべきだった。遠くなった距離のせいでも、忙しさのせいでもない。話さなかった時間がそのまま積み重なっていただけだったのだ。