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──ああ、これはきっと、運命だ。そう思った瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなった。
その日は新年度の始まりに似合わず、土砂降りの大雨だった。
一年目と変わり映えのない、それでもどこか浮き足立つクラスメイトを尻目に、欠伸を一つ噛み殺しながら壇上から響く校長の声を、遠雷のようにぼんやりと聞き流していた。
(……桜、今日で散っちゃうのかな。)
ふとそんなことを考え、何気なく窓の外を見る。
灰色の空に滲むように、ぼんやりとしたピンクの影が揺れていた。強い風に煽られ、枝ごと折れそうにしなる桜の木。何枚もの花びらが雨に打たれて舞い落ちていく。それを眺めながら、胸の奥がざわりと波打つのを感じた。
どうしてだろう。
ただ桜が散っているだけなのに、 何かが手のひらから零れ落ちてしまうような、そんな不安を覚え思わず指先を握る。生温い湿気を孕んだ風が、体育館の隙間から忍び込み、雨上がりの空を写したようななまえの髪を撫でた。
「――以上をもちまして、」
校長の声が途切れ静寂が訪れ、視線を窓から引き戻した。この感じは、何だろう。
言葉にできない胸騒ぎを抱えたまま体育館を後にした。
みょうじなまえという人間は、不幸というには足りず、かといって恵まれているとも言えない、ごく平凡な存在だった。
派手な人生とは無縁で、何かに秀でることもない。ただ淡々と日々を過ごし、できるだけ波風を立てずに生きてきた。
世界の総人口の約八割が「特異体質」を持つこの時代、例に漏れずなまえも個性を持っていた。彼の個性は”水”。とはいえ、自在に操れるわけでも、大量に生み出せるわけでもない。せいぜい手から申し訳程度の水を飛ばせるくらいで、まるでおもちゃの水鉄砲のようなものだった。
ただ、この世界には”個性”とは別に、アルファ・ベータ・オメガという”第二の性”が存在している。
中学に上がると、全員がバース検査を受けることが義務付けられている。自分は間違いなくβだろう——そう確信していた。だが、結果は意外にもΩだった。
Ωであるということは、三ヶ月に一度、強制的に”発情期”を迎えるということだ。その期間中、当人の意思とは無関係に濃厚なフェロモンを撒き散らし、手近なαに対して抗いがたい欲求を抱いてしまう。発情が始まれば、食事も、勉強も、何をしていても頭の中はそれ一色に塗りつぶされ、理性が失われる。ただの本能の塊になってしまうのだ。
——当然、そんな性質を持つΩの地位は決して高くない。公には差別が禁止されているとはいえ、社会に根付いた偏見は簡単には拭えない。Ωであると知れれば、それだけで周囲の態度は変わるし、思春期の少年少女にとっては特に、“発情する存在”という烙印がもたらすものは大きかった。
最寄りの駅には、午前で授業を終えた学生たちがまばらにいた。同じ制服を着たクラスメイトの背中がちらほらと見えるが、彼らと肩を並べて帰ることはない。虐められているだとか嫌われているという訳ではないものの、もともと内向的で人付き合いが得意なほうではないため、帰路を共にするような友人はいなかった。
家は閑静な住宅街にあった。両親は早くに離婚し幼い妹と共に母親とこの地に移り住んで来た。朝から晩まで自分達を養おうと働く母に変わりなまえが家事全般を行い妹の面倒を見ていた。それは思春期の男の子には一見窮屈な役割を背負っている様に見えるかもしれないが、元々保育士になりたいという夢に加え母の助けになりたい気持ちが大きかった為なんら苦では無かった。また、バース検査を受けてからはまだ見ぬ番に相応しい自分であるための細やかな訓練のつもりだった。
朝から降り続いた雨は、一向に止む気配を見せなかった。なまえは駅を出てしばらく歩いたところで、ふと手にした傘の異変に気づく。小さな違和感の正体を確かめようと目を向けると、傘の骨が一本、見事に折れ曲がっていた。強風に煽られた拍子に傷んでしまったのか、雨水を受ける布地が不自然にたわみ、傘としての役割を果たせなくなりつつある。
「……最悪」
思わず小さく舌打ちする。帰るまでの距離を考えれば、騙し騙し使うしかない。しかし、傘が歪むたびに雨粒が肩口に降りかかり、じわじわと制服の生地を濡らしていく。その冷たさに耐えかねて、視線を先へ向けた。
──高架下。
線路を支える分厚いコンクリートの影が、雨をしのぐにはちょうどいい。普段なら足を止めることのない場所だが、このまま家まで歩き続ければ、ずぶ濡れになるのは時間の問題だった。
ため息をつきながら壊れかけの傘を閉じ、足早に高架下へと駆け込む。
屋根代わりとなるコンクリートの下は、雨音が幾重にも反響し、静かでありながらも耳の奥に残る独特の空間だった。湿った空気に包まれながら、制服に染みた水滴を手で払う。
──ふと、視界の端に誰かの姿が映った。
少し先、壁際。自分と同じように雨宿りをしているらしい少年がひとり、じっと立ち尽くしていた。
濡れた前髪が額に張り付き、無造作に伸びた赤と白の髪が、鈍く光を反射している。その横顔には見覚えがなかった。
(……隣の中学校の人かな?)
何気なく視線を送った瞬間、少年が静かに顔を上げた。
そして、その目が、まっすぐにこちらを捉える。
一瞬、胸の奥がざわついた。雨音が遠くなる。まるで世界の色彩が変わるような感覚に囚われながら、目を逸らせずにいた。
意識のすべてがそこに向いているわけではない。ただ、時間がねじ曲がったように感じられた。
立ち止まった足元がぐらりと揺らぐ。目の前の景色が異様に鮮明に見えるのに、頭はどこかふわふわとして、現実感を伴わない。
──違う。
これは、世界が歪んだのではなく、自分が変質してしまったのだ。
赤と白に分かれた髪。氷のような瞳。少年の佇まいは、冬の朝の冷たい空気を思わせた。まるで温度を持たない彫刻のように、静かに、しかし確かにそこに存在している。
目が合った瞬間、胸の奥が軋んだ。
見知らぬはずの彼の姿が、頭に焼き付く。名前も、声も知らない。だが、それでも心が彼を知っている。魂の深い部分で、理屈を超えた確信が生まれる。
──運命の番だ。
喉が、カラカラに乾いた。
鼓動がうるさいほど早まる。彼もまた、動きを止めて目を見開きこちらを見つめていた。
ふと、彼が小さく息を詰めた。
眉間に僅かな皺が寄り、手が一瞬だけわずかに動く。まるで、何かを振り払おうとするように。
喉が上下し、息を飲む音が微かに聞こえた。
そして吐き捨てるように彼は呟いた。
「…っおれは、番なんていらない…運命なんかに囚われたくない……!あいつを超えるヒーローに……!」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようで。彼の瞳は鋭くこちらを睨んでいた。はっきりとした拒絶だった。
なまえの足元はもう、まともに立っていられないほど震えていた。
肺が焼けつくように熱く、呼吸が浅くなる。骨の髄まで痺れるような衝動が全身を駆け巡る。
幸いなことに周りには人は居ない。なまえは震える手で所持している抑制剤を取り出した。早く飲まなければ──そう思うのに、身体がまるで言うことを聞かない。喉が渇き、足元がふらつく。
そして、その場に崩れ落ち意識を失う寸前、彼がわずかに表情を曇らせた。
それは「助けようとする」仕草ではなく、「抗おうとしている」苦悩の色。
雨音が、いつもより遥かに遠く聞こえた。
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