──俊和十八年一月廿三日。紀州豊瀬郡采各郷郷長亘紀(せんき)。姓名を甲冊(こうさく)。兵二卒を以て密に反す。紀州令尹功徳、紀候青泊(せいはく)を弑し、亘紀を援けて兵四旅を遣わせて乱となる。慶王赤子、紀州に州師左軍黄備を遣わし戦わずしてこれを制す。二月朔日、亘紀以下廿余名が金波宮に潜して王を弑さんとす。冢宰小臣燦莉蓬、慶王及び冢宰を守護して篤く傷を負ふ。瘍医尽瘁──
『慶史赤書』より抜粋
「──…た…………て…」
「………ょ!……ら!」
ふと、人の声が聞こえた気がして薄らと目を開けた。見えたのは木目の天井で、外から入ってきたのであろう光が莉蓬の目を刺激した。
「あ、目を覚ました」
少年のような声がして、莉蓬は首を動かして右を見た。己の白い髪と布団、それから見慣れぬ人がいた。そこにいたのは黒髪の少年とも青年ともとれる赤目の男の子と、まだあどけなさの残る藤色の髪の青年だった。
床は畳で、室内外を隔てるのは土壁、襖、障子といった、いかにも日本のような光景であった。
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。いつも莉蓬が話す言語ではなかったからだ。しかし、それにしては聞き覚えのある言語だとは思い、はっと我に返る。
『誰だ!!』
一瞬にして自分が気を失う直前のことを思い出し、莉蓬は布団を蹴り上げて二人から距離を取った。手元に得物がないのは心もとなかったが、それより今は状況を把握せねばならなかった。思わず慶の言葉を発してしまったのは、もはや癖のようなものだ。しかし彼らにはきちんと話した言葉は通じたことだろう。莉蓬は仙だ。仙は基本、言葉に困ることはない。
しかし、だ。目も前男子二人は警戒して差した刀に手をかけた。現代の日本ではありえない光景だと莉蓬は知っている。景色は実に日本に近いが、少し違う様子に莉蓬は警戒の色を隠すことなく二人を睨みつけた。
「ちょっとぉ、どうするよ。コイツ言葉通じなさそうなんだけど…」
「どこの言語だろうね…とりあえず敵意はないことだけわかってもらえたらいいんだけど」
「じゃあ刀から手離したら?」
「無茶言わないでくれ。一応彼女が敵かどうかもわからないんだからさ」
「じゃ気絶だけでもさせとく?手負いなら大丈夫っしょ」
「──…一応、言葉わかるけれど」
ぴたりと二人の動きが止まった。目が点、とはこのことで、意表を突かれたように素っ頓狂な顔をしている。
…言葉が通じなかった?
二人の様子を見て、莉蓬は一応の臨戦態勢を解いた。全身に走る激痛に思わず足から力が抜けそうになるのを耐え、しかし施された手当の気配に息を吐くより他なかった。
「すまない。気が立っていた…。手当を施してもらったのだろう。礼を申し上げる」
「手当したのが僕らだとわかったのならさっさと布団に戻ってほしいのだけれどね」
警戒を完全に解いたわけではない。しかし殺気をしまい、戦う気の失せた莉蓬の様子に、男子二人も一応の臨戦態勢は解いた様子だった。
しかし微動だにしない莉蓬に、二人は不信な目を向けてくる。莉蓬とて布団に戻りたいのはやまやまなのだが、一つ問題があった。
「ちょっと、どういうつもり」
「──…すまん」
「なに?」
いよいよ不信感を募らせた様子の男子二人に、莉蓬はやっとの思いで声を出す。気が抜けた瞬間に全身の痛みが訴え始めたし、何より酷使した身体が言うことを素直に聞いてくれそうになかった。つまる話が、だ。
「立ってるので…せい、いっ…ぱい…」
ガクリとついに足が身体を支えきれずに力を失った。膝に地面がついたその衝撃が全身に走った。たったそれだけのことで莉蓬は軽く意識を飛ばす羽目となった。
「──………ぉがぁああああ!!」
誰かの怒鳴り声がして、莉蓬は己の体が誰かに引きずられていることに気付いた。思わず上がったうめき声を拾ったらしく、すぐ近くで心配げな女の声がした。
「待ってね、すぐ布団の中に入れてあげるから!!」
柔らかな布団に包まれ、莉蓬は意図せず安堵の息を吐いた。
ぼやけた視界に目を凝らせば、今度は女が一人、莉蓬をのぞき込んでいる。
その向こう側ではハラハラした面持ちの先の男子二人と、さらに見慣れぬ男もこちらを見つめていた。
「大丈夫?うちの加州と虎徹がごめんなさい」
「…ああ、いや…、こちらに非があるんだ…申し訳ない…」
本当はもう少し休んでいたいのだが、そういうわけにもいくまい。まだ、莉蓬は''主上''の安全を確認していない。
莉蓬は痛む体を押して体を起こそうとする。それを見た女が慌てて押さえつけた。
「ま だ 寝 て て !」
「ちょっ…待っ、待ってくれ…!」
「絶 対 安 静 !!」
「わ、分かった、分かったから話を、きっいてほしい…」
痛い。体がすごく痛い。全く、こんな大怪我を負ったのはいつ振りか。確かに莉蓬の怪我は動けばまだ死のリスクがあるような大怪我だ。それは莉蓬にも察しはついていたが、莉蓬は仙だ。ただのひとではなく仙人だ。それも高位の仙であるので、簡単に死ぬことはない。体は痛むが治りは早いし、これくらいじゃ死なないし死ねねない。
必死の莉蓬の様子に、女はやっと莉蓬の話を大人しく聞く気になったらしい。本当は起き上がりたかったが、それをすればまた先の押し問答が再開されるのは火を見るより明らかだったのでやめた。
「まず、私のことはご存知か」
「いいえ、名前が分からず…あ、でも勝手ながら、あなたの薙刀を分解させていただいて、『国断加弥子』の名は確認させていただきました」
「なぎな…は!?…いっつ…!」
思わず飛び起きかけた莉蓬だが、その瞬間の痛みには勝てず、思わず言葉が途切れた。
「あ…やっぱり嫌でしたよね…ごめんなさい…」
「ああ、いや…冬官に頼めば直してもらえるからいいんだけれど…。でも、どうしてそんなところに私の…それも本姓と名が…」
「え?」
「え?」
何故かきょとんとした顔をした女のことが良く分からない。
「薙刀、とは、私の所持品の薙刀でしょう?」
「え?ええ、そうですが…」
「確かにあれは、私の生家で代々伝わってきたものです。国断の名が刻まれていても変ではありませんが…」
それにしては、何故自分の名が刻まれているのか。それが解らず、莉蓬は思わず眉を顰めた。
「いや、考えても仕様がありませんね。改めて自己紹介いたします。私は燦莉蓬と申します」
「えっ?」
「…氏を燦。字を莉蓬と言います。字とは何かはご存知で?」
「ええと…」
「まああだ名です。莉蓬と呼ばれています」
「は、はい…。号のようなものでしょうか」
「ちかいですな」
どうにも歯切れの悪い女であったが、莉蓬はとりあえず気にせず話を続けることにした。気が急いている自覚は少しあった。莉蓬がすぐにでも確認せねばならないことが二つあった。自分が守護するべき貴人二名の無事の確認と、明らかに慶ではないここから、どうやれば慶に帰れるのかということだ。
もしここが蓬莱であったら慶に戻るのは絶望的だが、莉蓬の髪は白くおそらく慶における姿と同じだ。誠に蓬莱なら莉蓬の髪は日本に合わせた茶色い髪になる。
「とりあえず、ここはどこでしょう。地名だけでも教えて頂けますか」
「ち、地名…ええと…」
女は困ったように頬をかくと、ふと後ろを振り返った。
そこでは先の男子が我慢ならないといった様子でフルフルと震えていた。莉蓬が何かと疑問に思うより早く、男子は莉蓬を指さして大声をあげだしたものだから、莉蓬はきょとんとする。
「アンタ薙刀なんでしょ!?何言ってんの!?」
「は?」
「はあ!?わかんないわけ!?」
ちょっと…よくわからないです…。
莉蓬が困ったように顔をゆがめると、彼女らも困ったようにする。
「遅ればせながら、私は志摩沫雪といいます。この本丸を営んでおります」
「本丸?」
「はい。とある戦いの拠点です。莉蓬とお呼びしても?」
沫雪が気を取り直したように声をあげた。
「構いません」
「ありがとうございます。…その、私たちからしても、貴方は突然現れた御方でして…その」
言って、沫雪はちらりと背後の男子たちに少しだけ意識を向けた。なるほど、彼らがとても警戒しているので、莉蓬に何者かを教えろと言っているのだ。
しかし、ここは日本らしい。伝えたところで、とは思うが、既に莉蓬は異常な存在だろう。少々諦めの境地に入って、莉蓬は静かに口を開いた。
「…私は慶東国、という国の国官です」
「ケイトウコク」
復唱する沫雪に、莉蓬は痛む体を押して起き上がり、筆と紙を借りて『慶東国』と書き込んだ。久々の漢字だったので少々書くのに難儀した。
「国官にはおおまかに六の官職がございます。天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官。私はこのうち、夏官に属します」
「夏官」
「主に軍事を司ります。警備や土木事業などの公役も夏官の役目ですね」
『夏官』と紙に書く。沫雪が興味深げにのぞき込んできた。後ろの男子たちと違い、随分と警戒心がない。ちなみに男子たちはかなりハラハラした様子で沫雪を見ているので、莉蓬も可哀相になってくる。莉蓬は貴人を護衛する官職にあったので、彼らの気持ちが分からないでもない。
「ということは、軍の方なのですか?」
「いえ、私は小臣と言いまして、主上や貴人をお守りする警備の官職です」
「主上?」
「慶東国の主でございます。官は己の国主を主上とお呼び申し上げます。…私は普段は主上よりも冢宰を警護しているのですが。冢宰とは、朝廷において六官を束ねる官職のことです」
「……それって莉蓬、かなり偉いんじゃ…」
「それは官位の話でしょうか」
莉蓬は少々苦笑いする。あまり囃されたくないのだろうか、と沫雪はそれからはあまりそういった話はしないでおこうと心に決める。
「冢宰とは、彼や私が地方官であった頃からの旧知でして。特に、私は冢宰に大変な恩義がございます。ですから、主上も冢宰の小臣として私を登用してくださいました」
実力で這い上がったわけではないんです。そう言って莉蓬は笑う。
「では、莉蓬は慶東国に帰りたい?」
「……ええ。一刻も早く。特に、私の最後の記憶は……」
莉蓬が言葉を不自然に途切れさせた。そして気を使うように沫雪を見る。それだけで、沫雪は大体のことを察した。
「ここは戦の拠点です。実は私、それなりに血を見てきているので多少は大丈夫ですよ」
「……そう、ですか」
莉蓬が静かに返した。しばし沈黙が流れて、やっとまた莉蓬が口を開いた。
「冢宰が主上と面会されておられたときです。実は数日前まで、国内で小規模な乱がありまして。その残党が王宮に」
沫雪が目を見開いた。
「私は…恐れながら、内宮に於きまして武器の所有を認められておりましたので、応戦し、ほとんどは薙ぎ伏せたと思うのですが。他の小臣が駆けつけてくる前にと残党も即決の意識だったらしく、手薄な頃合を見図られました。おかげで、多勢に無勢でございまして」
この様です、と莉蓬は恥じるように己の体を見下ろす。
「駆け付けて来る他の小臣が見えたので、おそらく御無事だとは思いますが、気が付けばここだったもので」
「……」
顛末を話終えたあと、沫雪は難しい顔つきで押し黙った。
沫雪はしばらく考え込んだあと、そうですか、と小さく呟いて顔をあげた。
「私達の話を聞いていただけますか」