ところで、とおじいちゃんが私を見た。


「この病院の屋上には行ったことあるか?」
「屋上?ないけど、何かあるの?」


おじいちゃんが言うには、この病院の屋上はちょっとした憩いの場となっていて、出店で軽食なんかも売っているらしい。
今朝行ってみたんだが、いい所だったぞ、と教えてくれた。


「そうね、私はちょっと横にならせてもらうから、良かったら行って来たらどう?」
「あぁ、少し風に当たって来たらいい」


病院にいい思い出がない私への気遣いなのだろう。
折角だし、有難くそうさせてもらうことにした。
一緒に行こうかと言ってくれたおじいちゃんには、おばあちゃんのそばに居てあげてと断りを入れ、代わりに厚手のブランケットと軽食代を貰って部屋を出た。

エレベーターを降り、押しボタン式の自動ドアを開ければ、冷たくも心地よい風がふわりと肌を掠めた。
観葉植物やベンチが配備されたそこでは、患者衣を着た人や見舞い客であろう人達がゆったりと会話を楽しんでいて、確かに憩いの場だ。
あまりお腹は空いていなかったから、出店で温かい紅茶だけを買い、空いていたベンチに腰掛けた。

…あの頃は私も患者衣を着て、右足を固定されて、初めは車椅子なんかも使ってたなぁ。
今では仕方ないと思えるけれど、あの時は車椅子に乗る自分が凄く惨めに見えて本当に嫌だったっけ。

昨日の、一度は振り払った思考がまた浮かび上がってくる。
きゅっと握った紙コップから、じんわりと温かさが掌に伝わった。
彼らと共にした時間はまだ数ヶ月だけど、それでも、彼らのおかげで私の日常はとても明るいものになった。
皆がテニスをしている姿を見るのは大好きだし、私もそこで一緒にラケットを持てていることはとても嬉しい、けれど。
それと同時に、段々と距離を詰められ、そしていつかは置いていかれるような孤独感が無い訳では無かった。

一度は完治したはずの膝を、無理させてまた壊したのは自分で。
いくら技に磨きがかかっても、球のスピードや威力が増しても、もう、笑顔でトロフィーを掲げていたあの頃の自分を越えることは出来ない。

"Victory or advance"

前進…したはずだったんだけどなぁ。


「すみません」


急に近くから聞こえた声に、はっと声の元を見上げた。
患者衣を着た、綺麗な青紫色の髪の儚げな少年が優しく微笑んでこちらを見ている。
凄い綺麗な人だ。
なんとなく、どこかで見たような気もするが……


「隣、座っても大丈夫ですか?」
「は、はい、どうぞ」


ありがとう、と柔らかな声で微笑んだ少年は、私から少し距離を空けて同じベンチに腰掛けた。
なんとなく気まずさを感じるものの、手に持つ紅茶の紙コップを院内に持ち込む訳にもいかない。
早く飲んでおばあちゃんの所に戻ろうと、紙コップを口に運んで少し多めに一口飲んだ。


「あの」
「!」


話しかけられるとは思ってもいなかったから、少し体を揺らして彼の方を振り向いた。
彼は、そんなに驚かれるとは思わなかった、とくすりと綺麗に笑った。


「俺、幸村精市って言います。貴女は?」
「苗字、名前、です…」


すると彼は少し驚いたように目を開き、


「苗字名前…って、もしかして、苗字北斗さんの…?」


今度は私が目を開く番だった。


「父を知ってるんですか?」
「知ってるも何も、彼は俺達の大先輩なんです。驚いたな…こんな所で貴女に会えるなんて」


え、え、と言葉にならない声が漏れた。
大先輩ってことは、彼はまさか…


「立海の、生徒さんですか…?」
「はい。立海2年、男子テニス部の…これでも、一応部長なんです」
「えっ!?あっ、」


色々な思いが脳内を駆け回っていく。
そうだ、彼を見たことがあったのは間違いじゃなかった。
今年の全国大会の優勝校として雑誌に載っていたあの写真、確かに彼はそこに写っていた。
でも、どうして立海テニス部の部長さんが患者衣を着て病院に…?
いやでも今はとりあえず、


「あ、あの、今年の全国大会、優勝おめでとうございました」


そう言えば幸村さんは一瞬驚いたような顔をした後、ふわりと花のような笑顔を向けた。


「ふふ、知って貰えてたなんて光栄です。ありがとうございます」


けれど、私はその笑顔の中に何かひっかかりを感じた。


「俺も、貴女のことは雑誌で拝見させてもらっていました。あの記事以降貴女のことを追えなくなってしまったので、てっきりまだアメリカにいるものだと思っていたのですが…」


そこまで言った幸村さんは、いや、と緩く頭を振り、


「苗字さんは立海には通わなかったんですね」


と、話題を変えるように言った。


「あ…その、本当は立海に通う予定だったんですが…訳あって青春学園に」
「あぁ、その制服、青学のだったんですね。というと、テニス部部長の手塚くんはご存知ですか?」


ご存知も何も、私はそこのマネージャーだし生徒会でも一緒だし、ご存知すぎる程知っている。
話すか話さないか迷って、でも嘘をつくのも忍びなくて私は口を開いた。


「実は私、青学の男子テニス部のマネージャーをしてまして…」


えっ、と幸村さんの頭が僅かに後ろに下がった。
いや、その、実は敵同士なんですよね…


back