まだHR中の他のクラスの前を通り過ぎ、屋上へと続く階段を登る。
ざわざわと揺れる胃の辺りを抑え、軽く深呼吸をした。
行くまでは分からないんだから。
もしかしたら人には言いにくい悩み相談かもしれないじゃん。
そんなことを考えて自分を落ち着かせながら、カチャリと屋上のドアを開けた。
だだっ広いそこには誰もいない、と思いきや、


「名前ー!」


貯水タンクの隣にある小さな小屋のような建物の裏からひょこりと顔を出していた海くんが、こちらに向かって手を振っていた。
直ぐにそれは手招きに変わり、私は海くんの方へと向かう。


「ごめんな、忙しいのに呼び出したりして」
『ううん、大丈夫だよ』


小屋の裏手に回れば、確かにそこは入口からも反対面だし人目には付かなさそうだ。


「まぁ……立ち話もなんだし、座ろうぜ」


そう言って腰を下ろした海くんに、私もラケットバッグを置き、少し間を開けて腰を下ろした。
何を話せばいいか分からないまま、じっと彼の動向を探っていると、


「もうすぐ、バレンタインだよな」
『そう、だね…?』
「俺さ、…その、名前からの、チョコが欲しいなー…って」
『え、欲しいならあげるけど…』


違う違う!と彼は困ったように笑った。
じっとこちらを見つめ、少し逸らして深呼吸して、またこちらを見て。


「名前からの本命チョコが欲しい……んだけど、意味、分かる…?」


どくり。
鼓動と共に、体の中から変な汗が滲む。
ついに来てしまった、その言葉。


『あ……その…』
「っはは…その反応からして、ダメそうだな」
『…ごめん、今はそういうの興味無いというか…』
「……へぇ?」


少し低くなった海くんの声に、え、顔を上げた。
なんか、雰囲気が変わった…?


「興味無いってことは、やっぱり誰とも付き合ってないんだな」
『え…?何が…?』
「男テニだよ。手塚とか、不二とか、乾とか…その辺と良く一緒にいるだろ、お前」
『付き合ってないよ…!?』


ふーん、と海くんは面白くなさそうにこちら側に体重をかけるように地面に手を着いた。
少し近づいた距離に、どことなく嫌な感じがする。


「なーんだ。略奪のスリルも味わえると思ったんだけどな」
『…どういうこと…?』
「でも、まぁいいや。正直望みも薄かったし、正攻法で手に入れんのは諦めるわ」


よっと着いた手を軸にしてぴょんと跳ねた彼は、私の目の前にしゃがんでその綺麗な顔をにこりと歪めた。
なんとなく危険を感じて、後ずさりながら慌てて立ち上がろうとすれば、


「おっと、逃げんなよ?」
『い゙っ…!?』


ゴッという鈍い音と共に左腿の側面に痛みが走り、私はドサリと地面に落ちるように座り込んだ。
え?何?なんで?殴られた?
呆然と顔を上げると、すぐ目の前に海くんの顔があって、


「ふははっ、いいねその顔」
『なに、して…』
「何?何って、分かんない?綺麗なものって、壊したくなるだろ?」


お前のその顔が歪むとこ、ずっと見たかったんだよな。
にやりと歪む顔。


「本当は手に入れてからじわじわやろーと思ってたんだけど」


これはマズイのでは。
今になって貞治の、水瀬海には気をつけろ、という言葉の意味が漸く理解出来た。
同時に、国光に嘘をついたことも、貞治に相談しなかったことも後悔した。
じくじくと痛む左足を引きずるように後ずされば海くんが近づいて、また後ずされば、背中に固いものがぶつかる。
あ、と振り返れば、小屋の壁が私の逃げ場を塞ぐように立ちはだかっていて、


「ダメだろ?後ろはちゃんと見なきゃ」


落ちた影とすぐ近くで聞こえた声に慌てて前を向けば、私に覆い被さるように馬乗りになった海くんがぐいっと顔を近づけてくる。
私の両足を封じるように跨り、片手を壁に着いた彼は、もう片方の手で私の顎を乱暴に掴んで持ち上げた。


『っ…やめて…!』


両手で突っぱねるように彼の体を押すと、ゆらりとその体が傾いた。


「っと…華奢に見えてやっぱ力はあるなぁ」
『ぅっ…』


がしりと前髪を捕まれ、痛みに歪む私の顔に、また彼の顔が近づいてくる。


「抵抗してもいいけど、その分返させてもらうぜ?」


微笑を浮かべつつも冷ややかな目に見下され、言葉に詰まる。
これが、あの海くん…?
まるで別人だ。
正直、蹴ったり殴ったりもできなくは無い。
ただそれで隙をつけるかどうかはわからないし、最悪また殴られたりすることになるだろう。
もし、万が一右膝に当たるようなことがあれば。
もし、また当たりどころが悪くて今以上にテニスが出来なくなってしまったら。
絶望の果てに漸く見つけた幸せが、壊れてしまったら。
そんなの、嫌だ……


「名前!!」


「!ッチ…!」


少し遠くで聞こえた声にハッと目を見開いた。
同時に、海くんから強い力で口を塞がれてしまう。


『っんんん…!!』
「黙れ」
『ん゙っぅ…』


左の二の腕辺りを殴られ、痛みにギュッと眉が寄った。
声は徐々に近づいて来る。
ぐっ、と海くんの腕に、更に力が込められた。
壁に押し付けられた頭にもじりじりと痛みが襲う。


「名前ー!いたら返事してぇー!!」


英二…!ここ…!ここにいるっ…!!


「名前ちゃん!!」


秀…!助けて、


「名前!!」


助けて、


ガリ、と口内に嫌な感触が伝わる。


「いっ…!?」


海くんが仰け反るように私から離れた隙を見て、息を大きく吸い込んだ。


『っ国光!!!』
「!?このっ…!!」


一歩踏み込んだ海くんが、腕を大きく後ろに引く。
身を縮込ませ、両手で頭をかばいながらギュッと目を瞑った。


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