憂鬱な気分のままあっという間に放課後がやってきた。
クラスメイト達と別れの挨拶をしながら教室を出て、一瞬足が止まる。
その一瞬でバックレてしまおうかとも思ったが、今はいらない良心が邪魔をして、私の足取りは重く生徒会室へと向かっていく。


「あっ!名前〜!」


そんな私を後ろから呼び止める声。
振り返れば、今あまり会いたくない部類の一人が大きく手を振りながらこちらへ駆けてきた。
彼の背には、大きなラケットバッグ。


『…英二』


菊丸英二、男子テニス部の一人だ。


「お、おい!廊下は走るなよ英二!」


更に後ろから慌てたように走ってきたのは、同じく男子テニス部の大石秀一郎。
慌てているせいか、言ってることとやってることが矛盾しているのはなんとも彼らしい。


「やっほ〜!」
「こんにちは、名前ちゃん」
『2人共、お疲れ』


英二とは1年の時に同じクラスだった。
話の流れで私がテニスをやっていたことを知った彼は、そこからよく私に話しかけてくれるようになったのだ。
今となってはテニスをしていたようなことを言わなければよかったと後悔している。
彼からはよく部活やテニスの話を聞いていて、そんな話をする時の彼が嫌に眩しくて、羨ましかったのは今でもそう。
2年になるにつれて英二繋がりで秀や他のテニス部員とも話すようになってしまって、現在に至る。
今私の目の前にいるこの2人はダブルスを組んでいて、2年生ながらに青学のゴールデンペアと呼ばれるほど、そのコンビネーションと実力は確かなものらしい。
全部英二から聞いた事だし実際に見たことは無いけれど。


「てかさっ!そろそろ練習見に来てよぅ!何回も誘ってるのに、一回も来てくれたことないじゃん!」
『そのうちね』
「またそれぇ〜!?」
「こら英二、あんまり名前ちゃんを困らせたらダメだよ。副会長にもなったんだし、これからもっと忙しくなるんだから」


こんな時に秀の一言はとてもありがたい。
1年の時から横にいて欲しかったくらいだ。


「手塚も今日は少し遅れてくるみたいだし、早速生徒会の仕事かい?」
『…うーん、どうだろうね』
「んにゃ?どーゆーこと?」


その部長さんに個人的に呼び出されまして、なんて嫌味を言おうか迷ったが、2人には関係ないしそっと飲み込んだ。


『2人ともこれから部活だよね?頑張って』
「え?う、うん」


ひらひらと手を振って、生徒会室へと向かう。


「…なんか名前、元気なかった?」
「生徒会が入れ替わったばかりだし、忙しくて疲れてるのかもな…だから英二、無闇やたらに誘っちゃダメだぞ」
「うぅ…しょーがないかぁ〜…」



* * *



かちゃりと生徒会室のドアを開ければ手塚くんは既に来ていて、備え付けの椅子に深く腰かけ腕を組んでいた。
入ってきた私に気づくとスっと席を立つ。
わざわざ立たなくてもいいのに、律儀な人だ。


『お待たせ』
「いや、俺も今来たところだ」


静かな空気の中、私が机にバッグを置く音が僅かに反響した。


「すまなかった」
『…はい?』


突然、手塚くんが頭を下げた。
それはもう綺麗な90度で。


『ちょっ…やめてよ…!』
「何も知らなかったとは言え、俺の判断が苗字を傷付けることになってしまった」


彼のその言い方になんとなく察した。


『……聞いたんだ、竜崎先生から』
「そこまで詳しく聞いたわけではないが…」


ゆっくりと頭を上げた手塚くんは何かを話したそうで、でも、どう話し出していいものかと悩んでいる様子で。
小さく鼻から抜けていくため息と共に、私は近くの椅子を手元に引っ張った。


『もう少しだけ、時間ある?』
「…あぁ」


椅子数個分の間を空けて、私達は座った。
ぽつぽつと話し出していくのは、私の過去…アメリカで起こったあの出来事。


『とある大会中にね、チームメイトの子にラケットで殴られたんだよ』


逆恨みってやつ。
そう言いながら右膝を撫でれば、手塚くんの視線も私の膝へと落ちた。


『とりわけ力が強い子でねー…子供の体って脆いじゃん?当たり所も悪かったし、咄嗟に捻った足もよくなくて…膝蓋骨の微骨折とか、半月板の損傷とか、まぁ色々重なって』


私は一時、右足が不自由になった。
だけど右足以外のトレーニングは欠かさなかった。


『成長期だったし、骨折は割とすぐに完治したんだ。半月板も縫合手術を受けて…』


リハビリも一生懸命やって、日常生活にはほとんど支障がない程にまで回復もした。
そして休んでいた間の遅れを取り戻す為に必死に練習を重ねた。
結果として、それがまた私自身の首を絞めたのだ。


『焦って無茶な練習して、半月板が再断裂してね……また手術したんだけど、知らないうちに変な庇い方してて膝自体も悪くしちゃってたみたいでさ。負荷NG、長期戦もNGで、前みたいな試合が出来なくなっちゃった。今でも体育の時なんかはたまに痛むし、曲げ伸ばしがぎこちなくて』


もう嫌になっちゃうよね。
へらりと笑って言っても、手塚くんは無言のままだった。


『これでもさ、ずっと父さんの背中を見てきたから、プロになるっていう夢があったんだ。でも、その夢も叶わなくなっちゃった。だからもうアメリカにいたくなくて、中学入学と同時に日本に帰ってきたんだよ』


いや、逃げてきた、の間違いかもね。


『…私、本当は立海に通う予定だったんだ』


ピクリと手塚くんが反応した。


『父さんも母さんも立海出身でね、父さんが立海のテニス部員だったんだよ。だから、私が無理言って青学に変えてもらったんだよね』


ここで、もうテニスとは無縁の生活をしよう思った、のに。
入学と同時に出会ったのは英二で、生徒会に入って出会ったのは手塚くんで、主に英二繋がりで秀やその他男子テニス部員とも話すようになってしまって。
彼らがテニスの話をするたびに、生徒会室で手塚くんのラケットバッグを見るたびに、いきいきとした彼らが眩しくて、羨ましくて、同時に妬ましくて。


『……私だって…もっと、テニスがしたかったのに…』


テニスは好きかい?


『っ嫌いになんて…!なれる、わけっ…』


ぽたり、と握った拳の上に雫が落ちてハッとした。
慌てて目を擦った。


『ご、ごめんっ…全部、忘れて…』
「苗字」


きぃ、と音を立て手塚くんが立ち上がった。
思わず見上げれば、そっと差し出される彼の左手。


「出来る限りのサポートはする。うちのマネージャーになってくれないか」


彼の言葉に、真っ直ぐな瞳に、一瞬だけ息が止まった。


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