『違う、国光のせいじゃない』
「お前が俺を呼んでくれたあの時、少しでも遅かったら…」


そっと持ち上げられた彼の右手を、左手がぎゅっと握り締めた。


「この手が、少しでも届かなかったら…お前は…」


下げられていた視線がゆっくりと動き、私の頬辺りをそっと撫でていく。
国光の言う通り、あの時国光が少しでも遅ければ、私は確実に頭部を殴られていただろう。
腕でガードしていたとはいえ、それこそ当たりどころが悪ければどうにでもなってしまうのが頭部だ。


『国光』


不安と痛みに耐えるような、僅かに歪んだ彼の目がゆるりと動いて私の目と合った。
普段から表情一つ変えない彼の、こんなに辛そうな顔は初めて見る。
そうさせているのは、私なんだ。
会長と副会長、部長とマネージャー。
ただそれだけの関係なのに、私の為に彼はこんな顔をしてくれるのか。
……そう言えば、結構前に周助が言っていた気がする。


なんだかんだ、一番名前のことを心配しているのは手塚だからね。


なんで、なんだろう。
私が彼に特別何かをしたわけじゃないのに。


『…心配かけてごめんなさい。それから、助けてくれてありがとう』


ふらふらと国光に歩み寄り、そっとその頬へと手を伸ばした。
触れた頬はひんやりと冷たい。
国光は少し驚いたように目を開きながら頬に寄せられた手へ一度視線を送り、若干の困惑を混ぜながら私を見た。


『国光がいてくれたから、これだけで済んだんだよ。だから、そんな辛そうな顔しないで…』


引っ込められていく手を、少しだけ、国光の視線が追う。


『ふふ、こんなのすぐ治るよ。大丈夫だか、ら…』


ふわり、と彼の匂いが鼻腔を掠めた。
視界が真っ黒に染まり、顔を上げようにも頭の後ろに添えられた手が優しくもそれを拒否してくる。
壊れ物を扱うようにそっと丁寧に回された腕は、私を支えるようにしっかりと背中に当てられていて。


『……?』


まさか、彼にこんな風に抱きしめられる日が来るなんて思ってもいなかった。
というよりも、彼が誰かを抱きしめるなんて。


「お前の大丈夫は信用出来ない」


思った以上にすぐ近くで聞こえた低音に、ぴくりと肩が跳ねた。
少しだけ、背中に回された腕に力が入る。


「…今回、俺達がすぐ屋上に行けたのは、乾がいたからだ」
『え…?』
「乾は少し前からやたらとお前に近づくようになった水瀬を危険視していて、独自でアイツについて調べたらしい」


国光から聞いた彼の過去は、私の予想を遥かに超えるものだった。
どうやら、彼、水瀬海は、過去に2度今回と同じようなことをして、その度に退学処分となり転校を繰り返していたらしい。


「乾はそれを、俺と不二にだけ伝えてくれていた」
『な、なんで…?』
「本当は他の奴らにも伝えたかったが、あまり範囲を広げるとどこでアイツに気づかれるか分からなかったからな」


だから、最近校内でその3人に出会う率が高かったんだ…
そっと腕が離れていく。
私から一歩引いた国光は、少し体の向きを変え、視線を斜め下へと落とした。


『3人で、見ていてくれたの…?でも、じゃあ、私にも言ってくれれば…』
「今となっては、そうするべきだったとしか言いようがないな…」


特にこれと言って私に被害が出るような行動をしていなかったのと、万が一、彼がちゃんと更生して生活をしようとしているのであれば、ということを考えて、3人で見張るだけにしていたようだ。
ただ、昨日彼が私に何かを渡したのを目撃した際、貞治から注意喚起だけはしておいた方がいいかもしれないという助言を受けて、水瀬海には気をつけろ、という伝言を伝えてくれたのだそう。


「今朝お前は、放課後先生に用事があると言った。なら、俺も一緒に着いていこうと、HR後にお前のクラスに行ったんだが…」


8組は珍しくHRが早く終わっていて、私はもういなかった。
クラスの子に聞けば、部活で勉強会があるからとすぐ教室を出たことを伝えられ、私の話との小さな矛盾を疑問に思った国光は、すぐに貞治の元へと向かったらしい。


「それから乾と共にここに来てみたが、お前はいなかった。だからもう一度お前のクラスに行き、今度は水瀬について聞いた。アイツもまた、用があると言ってすぐに教室を出ていったと聞いた」


そこでなんとなく嫌な予感がしてみれば、やはり貞治も同じことを考えていたらしく、すぐに携帯でレギュラー陣に連絡をして私の捜索が始まったのだった。
捜索場所に関しては貞治の助言でいくつか候補があり、その一つが屋上だったそう。
……あとは、あそこで起こった件の通りだ。


『そこまで大事になってたんだ……皆に迷惑かけちゃった…』


どんどんと罪悪感が積み重なっていく。
ぽん、と頭に乗せられたのは、国光の手だった。


「お前は本当に、目を離すのが怖い子供のようだな」
『なっ…!』
「人を心配させる天才だと思う」


ばさりと言い切られ、返す言葉が見つからない。
彼の手がさらりと髪を伝い、頬へと落ちた。
微かな体温が伝わる。


「無事とまではいかなかったが…大事に至らなくて本当に良かった」


その時の国光はやっぱり今まで見たことがない表情を浮かべていて、


『…あり、がとう…』


こんな顔も出来るんだ、と思うのと同時に、どこか胸の奥の方がチクリと痛んだ気がした。


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