まさか、竜崎先生ではなく彼の口からその言葉を聞くことになるとは思ってもいなかった。


『なに、を…』
「少し前に、竜崎先生からマネージャーの件でお話を頂いた。アメリカのJr.大会で活躍していた女子がいるから、と。詳しく話を聞けば、苗字、お前のことだった」


疲れるだろうに、こちらに差し出した手はそのままで手塚くんが話し出す。


「今はうちの部員達が交代でマネージャー業を兼ねてくれているが、今後を見据えればやはりちゃんとしたマネージャーは必要だとも思う」
『だっ…でも、私じゃなくても…!』
「竜崎先生から聞いたお前の腕と見極める力…そしてこの1年間半、お前と生徒会役員としての働きを共にしていたからこそ言える」


是非、苗字に頼みたい。


『………』


差し出されたままの左手は、震えることなく真っ直ぐに私へと向かっている。


「お前のことを考慮していない言葉であることは重々承知だ。それでも、頼む。きっとこれからの青学には、お前の力が必要だ」


手塚くんの真っ直ぐな視線も、未だに私から逸らされることは無い。
昨日連れていかれた先で竜崎先生と手塚くんが揃った時、何かしらの手伝いをして欲しいと言われるであろうことは少なくとも予想はしていた。
昨日は私が途中で逃げるように帰ってしまったから言われることは無かったけれど、もし言われたら即断ろうとも思っていた。
…のに、


『……お断りします』
「!……そうか」


差し出されていた左手が、力が抜けたように僅かに下がった。


『って、昨日のままだったら迷わず言えたんだけどね…』
「…?」


自嘲ともとれる笑いが自然と零れていく。
自分からテニスを遠ざけるようになってから、誰かに面と向かって本音を話したのが初めてだったからだろうか。
それとも、彼の真っ直ぐな言葉に、少しでも心が動かされたからだろうか。


『はは……必要だなんて言われたら、断りにくいじゃんか…』
「え、あ、いや……すまない…」
『一度はテニスを捨てた私が、皆の力になれるかな…』
「お前はテニスを捨てたわけじゃない」
『え…』
「本当に捨てたのなら、あんな顔はしない」
『…!』


あれ程までに色褪せて見えていた景色が、少しだけ鮮やかになっているような気がした。
私はもう思いのままにテニスは出来ないけれど、だからこそ、眩しい彼らの未来のために精一杯出来ることをしてみるのもいいのかもしれない。
こんな私に、まだコートで出来ることがあるのなら。


『本当に、私でいいの?』
「あぁ。苗字だからこそ、頼みたいと思った」


戦うテニスから、見守るテニスへ。
眩しくて、少し羨ましい彼らと共に。
引かれることのなかった彼の左手に、そっと私の左手を重ねた。


「!」
『…よろしく、お願いします…』
「こちらこそ、よろしく頼む」


手塚くんの目元がふっと緩んだ。
彼のそんな顔は見たことがなかったから驚きに目を開けば、なんだ?と不思議そうに聞かれる。


『いや……手塚くんて、笑うんだね…』
「……は?」



* * *



それから私は手塚くんと共に数学準備室へと向かった。
勿論、竜崎先生に挨拶をするために。
竜崎先生は手塚くんに続いて私が入ってきたことに驚いた様子だったが、すぐにその顔を笑顔に変えた。


「顔つきがスッキリしたようだね、苗字よ」
『あ…その、途中で帰ってしまってすみませんでした…』


いいんだよ、とケラケラ笑った竜崎先生は、昨日と同じように私達に椅子を用意してくれた。


「で?突然来たかと思えば、なんの用だい?」


彼女の声に、きちりと姿勢を正す。
別にしなくてもいいのに、私の隣で手塚くんもスっと背筋を伸ばしたのを横目に見て笑いそうになった。


『私に、男子テニス部のマネージャーをさせていただけないでしょうか』


じっと私を見つめる竜崎先生は、口元の弧を更に深いものへと変えた。


「勿論、アタシはハナっからそのつもりだったよ」
『ありがとうございます…!』
「うちの連中は曲者揃いだよ。しっかり見守ってやっとくれ」
『はい!よろしくお願いします!』


挨拶も済ませ、手塚くんは部活の為数学準備室を出ていった。
私はここに残り、竜崎先生から詳しい話を聞くことに。


「なんだい、うちの次期レギュラー候補の奴らとはほとんど知り合いだったのか」
『1年の時に英二と同じクラスで…』


話を聞けばどうやら英二と秀は勿論、彼ら繋がりで仲良くなった周助と貞治は既にレギュラー枠にいるらしく、タカさんも3年が引退した今はしっかりとレギュラー候補だそう。
また、手塚くんもだが、周助も話で聞いていた通り天才と呼ばれ、彼らの中では頭一つ以上飛び抜けているのだとか。


『いやでもまさか、何気なく話してた人達が皆レギュラー枠だとは…』
「お前さん、女子にしちゃあうちの部に疎いんだねぇ」
『あぁ……』


勿論うちの男子テニス部の人気具合は知っている。
毎日毎日彼らの練習には沢山の女子が押しかけているのを遠目に見ながら、よくもまぁ飽きないなぁと思っていた。


『まぁ…そもそも必要以上に関わろうと思ってなかったというか…ああいうきゃーきゃーしたのも苦手で…』
「ま、だからこそ手塚もお前さんを選んだんだろうけどね」
『あー…ああいうの一番苦手そうですもんね、彼は』


それから暫く男子テニス部のことやマネージャー業務について竜崎先生から聞き、再度よろしくお願いしますの挨拶をして私は数学準備室を後にした。


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