思ったより竜崎先生と話し込んでしまい、部員達への挨拶はまた明日ということになり、私は真っ直ぐ帰宅した。
私が今住んでいるのは父方の祖父母の家。
両親は私と共に一緒に日本に帰るつもりでいたようだが、2人同時に向こうでの仕事を辞める訳にもいかないし、一人で大丈夫だからと押し切って私だけが日本へ帰ることになったからだ。

祖父母はずっと日本に住んでいたが、アメリカにいる私によく手紙を出してくれたり、誕生日にはプレゼントを送ってくれたりととても優しく、私の帰郷が決まった時は真っ先ににうちにおいでと言ってくれた。
ちなみに母方の祖父母も同様にめちゃくちゃ優しくて、聞くところによれば父方と母方の祖父母の家のどちらに私を住まわせるかで少し揉めたらしい。
最終的に、通うことになった青学に近い父方の祖父母の家に決まった、という感じである。
なんにせよ、どっちのおじいちゃんもおばあちゃんも優しくて温かくて、大好きなのには変わりは無い。


「ただいまー」


玄関からそう声をかければ、いつも通りの温かな「おかえり」が返ってくる。


「あら?」


おばあちゃんが私を見てふと首を傾げた。


「どうしたの?」
「名前ちゃん、何かいい事でもあった?」
「えっ?」
「ふふふ、とっても嬉しそうな顔をしていたから」


思わず足が止まった。


「何があったのかは分からないけれど…名前ちゃんのそんな顔、久しぶりに見たようでなんだか私まで嬉しくなっちゃうわ」


とくん、と心が跳ねた。
おばあちゃん、と呼べば、なぁに?と優しい返事が返ってくる。


「私ね、またテニスをするかも…や、するよ」


おばあちゃんの顔が驚きに染まり、それからふわりと花のような笑顔が咲いた。


「そうなのね、…あぁ…そう……目一杯、楽しんでおいで」


ラケット、捨てなくて良かったわね。
…うん。



* * *



とさりと机の横に鞄を置いた。
ウォークインクローゼットを開き、一番奥の角に他の荷物で隠すように押し込んでしまわれていたラケットバッグを引っ張り出した。
最後に見たのはこの家に越してきた日。
青と白のツーカラーのそれは、まるで私がいつか青学の男子テニス部と関わることが分かっていたかのようだった。
ホコリの積もったラケットバッグをそっと横に倒し、ファスナーを開ければ、懐かしい相棒達があの時のまま姿を見せる。


「……待たせてごめんね」


もう一生見ないと思っていたのに、どうしても捨てられずに、ただただ記憶の奥底へ押し込めるようにしまわれていた彼ら。
グリップは劣化してボロボロだし、ガットも張り替えないといけないな。
3本のラケットをまとめて持ち上げれば、横からぽとりと黄色い何かが落ちて床を転がった。


「あ…」


"またな"という拙くも力強い文字と、その横に小さなオレンジの絵が書かれた、世界に一つだけのテニスボール。
そっと拾えば、掌に懐かしい感触が伝わってくる。
ボールを机の上に置き、ラケットバッグに積もったホコリを払うため、一度中身を全て出してからバッグを持って部屋を出た。


「名前ちゃん」


庭先でぱたぱたとホコリを払っていると、いつの間にか縁側におじいちゃんが立っていた。


「さっきばあちゃんが嬉しそうに話してくれたよ。またテニスやるんだってな」
「うん。試合をするわけじゃないけど…」
「それでも、ラケットは持つんだろう?」
「そう、だね」


ほら、とおじいちゃんが私に何かを差し出した。


「え、これ…」


その手には、いくつかの未開封のグリップテープ。


「いつかまた、名前ちゃんがテニスをやる日が来ると思ってね」
「おじいちゃん…」
「といっても半年くらい前のものだから……まぁ、しっかり保存はしていたし、無いよりはマシだろう」


そんなに前から、おじいちゃんは私が再びラケットを握ることを信じて待っていてくれたんだ。
また、とくりと心が優しく波打つ。


「ありがとう、おじいちゃん」
「楽しんで来なさい」
「うん…!」



* * *



部屋に戻り、ラケットのグリップも巻き替え、ラケットをバッグに仕舞おうとした時だった。
バッグの内側に油性ペンで書かれた文字が目に入った。

"Victory or nothing"

勝利か、無か。
過去の私が書いたものだ。


「………」


徐にペン立てから油性ペンを取り出し、"nothing"の上に線を引く。
少し考えてから、その上部にザラザラと新しく単語を書き加えた。


      advance
"Victory or nothing"


負けても"無"になんかならないし、もう、させない。
その先にあるのは、"前進"のみだ。

その後、アメリカにいる両親にもメッセージでこの事を伝えた。
夕食の前に父さんから電話がかかってきて、少し恥ずかしかったけど改めて自分の口から2人に経緯と感謝を伝えれば、どんどん母さんの声が涙声に変わっていってなんだか私まで泣けてきた。



* * *



次の日、朝イチで英二が私のクラスに駆け込んできた。
あの苗字名前が男子テニス部のマネージャーになる、という話は瞬く間に広がり、恥ずかしながらも一時学校中がその話題で持ち切りになった。


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